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2023年4月2日主日礼拝説教(要約) 説 教


  説教  真理とは何か 

                 吉平敏行牧師


   聖 書  イザヤ書 52章1~6節

        ヨハネによる福音書 18章28~40節

 「真理とは何か」。これは、ピラトならずとも聞きたくなる質問です。偽りのない、いつまでも変わらない、そんな普遍的な真理があるのであれば、知りたいと思います。

  ただ、ここの原語は、イエス様の「真理」には冠詞がついていますが、ピラトの尋ねた「真理」には冠詞がありません。イエス様が仰る絶対的な真理とピラトが尋ねた一般的な真理との違いがあると言えます。

  イエス様は、いつもの祈りの園で大祭司の手下の者たちに捕まえられ、大祭司カイアファの姑アンナスのところへ連れて行かれます。アンナスの前でも毅然とした態度を貫かれた主イエスは、次に大祭司カイアファの庭で尋問されます。そこでカイアファが「お前は神の子、メシアなのか」と尋ねると、イエスは「それは、あなたが言ったことである。しかし、あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る」と言われ、その言葉が神への冒涜と断定され、ユダヤ人たちはイエスを死刑にすべきだという意を固めます。

  イエスを何としてでも処刑したいといきり立つユダヤ人と、ことを大きな問題にしたくないピラト。それが、28節から始まる裁判の背景にあります。そうした中で、主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」(18:37)と言われます。ピラトは、イエスなる男が暴動を引き起こすような人物とは思えず、ユダヤ人の気を損ねないように恩赦を適用して事を収めようとしますが、ユダヤ人たちは、イエスの釈放を望まず、暴動と人殺しで捕まっていたバラバ・イエスの釈放を願うのです。

  そこまでいくとピラトも打つ手がありません。むち打ちをして、ユダヤ人にイエスを引き渡そうとします。しかし、ユダヤ人たちは「十字架につけろ」の大合唱となる。ピラトも、これはまずいと思ったでしょう。もう一つ、最後に自分で確かめたいことがあった。それが「お前はどこから来たのか」という質問です。しかし、主は何もお答えになりません。とうとうピラトも業を煮やして、自分はお前を生かすことも殺すこともできると言ったのです。それに対してもイエス様は「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」(19:11)と言われたのです。目の前に誰が立とうと意に介さない、と言わんばかりの答え方です。

  ここに至って、イエスが言われた「真理」とピラトが考える「真理」との違いが明らかになってきます。しかし、どんなに絶対的な「真理」を口にしたところで、この世はローマ皇帝の支配にあり、その皇帝のもとにある真理が、この世では幅を利かせるのです。

  私たちが口にする「真理」は、主イエスが言われた意味での真理なのか、それとも、世に言う「真理」なのか。今の世は、真理などない、と主張し、イエスの言われる真理を語らせなくさせています。

  ユダヤ人たちはピラトに、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」と訴えます。ピラトは、その言葉に恐れを感じます。彼を超える、この世の権威、権限が出始めたら、彼の考える真理や誠実さも引っ込めねばなりません。ピラトは心を定めて、イエスを官邸から外に連れ出して、ユダヤ人の面前に立たせて判定を下します。ピラトは、最後までためらいながら、19章15節で「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と問うのです。ユダヤ人たちは、本来なら、決して口にしない、カイザルを王とし、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言うのです。

  時のカイザルの下で権威を委託されているピラトと、憤りと憎しみにより律法を守るかどうかなど問題にしなくなったユダヤ人たち。その中に、ただ一人イエスが毅然として立っているのです。

  こうして、イエスの判決は、最後まで揺れながら進んでいきます。人間の思惑、同情や配慮、強い意志を持ってしても、どうにも止められない力が働いています。それが空中に勢力を持つ悪霊の力(エフェソ2:2)です。その只中に神の御子イエスが、一人、毅然として立っておられるのです。ここは、まさに霊の戦場と化していたのです。果たして、私たちは、そのイエスが言われる「真理」の側に立っているのでしょうか。

  この日は、ユダヤ教最大の祭である祭過越の初日でした。ユダヤ人は、その大切な日に異邦人世界に触れて身を汚すことのないように注意していました。28節の「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」は、そうした背景を指します。それはピラトも知っていましたから、ピラトは総督官邸とユダヤ人が集まる所とを出たり入ったりして裁判を進めていきました。

  著者ヨハネは、32節に「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と記します。これは、イエスの十字架の死を意味しています。イエス様は、その死に方を前々から予言しておられました。律法による石打ちであれば地上で執行されますが、十字架刑では体が木に上げられます。イエスはニコデモに「人の子は上げられなければならない」と言われました。イエス様は、ご自分の死が、「上げられる」形を取ることをご存知だったのです。

  私たちは、イエスの十字架をイエスの死として理解していますが、見落としてならないのはユダヤ人イエスの死が、十字架であった、という死なれ方です。イエスは、律法によってではなく、ピラトの裁断で、ローマの法により十字架に架けられたのです。

  ユダヤ人のメシアとして来られたのがイエスでした。それが、民族の解放を祝う過越祭の日に、同胞の手により異邦人に引き渡され、異邦人の処刑方法で殺されたのです。19章14節に「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」とある「正午」は、家中から酵素を取り除く「除酵」の時間になっていたと言われます。家中から酵母を取り除き、種入れぬパンを作ります。そして、出エジプトの慌ただしい夜を思い起こすのでした。神の救いが、律法に記された流れの中で、イエスを殺そうとするユダヤ人と、ローマ皇帝のみを恐るピラトとの間で、十字架刑に決まるのです。誰もその流れを止めることはできません。イエスが言われたとおり「神から与えられていなければ、何の権威もない」とは、このようなことを指すのです。

  私たちが「真理とは何か」と問う場合、ピラトのような一般的な真理を問うているのではありません。「イエスが言われる『真理』とは何か」と問うのです。

  こうして、ギリギリまでユダヤ人と折り合いをつけようとしたピラトが、ユダヤ人の声に押し流され、ユダヤ人の怒りは沸点に達します。「十字架につけろ。十字架につけろ」の大合唱となる。だったら、お前たちが引き取って十字架につけたら良い、とピラトは言います。ユダヤ人は、イエスは自分を「神の子」と言ったのだから、十戒を破る死罪に相当する、と言うのです。ピラトは、再び官邸に入ってイエスに「お前はどこから来たのか」と尋ねますが、イエスはお答えにならない。私たちは使徒信条で「ポンティオ・ピラトの下に十字架につけられ」と告白しますが、ヨハネは「ピラトを釈放しようと努めた」と書きます。しかし、それでも抑え込めない悪の力が全てを押し流していったのです。

  「真理とは何か」に対する答えは、絶対的な真理であるイエス・キリストを知ることです。私たちがその真理を知るためには、イエスを知らねばなりません。世に言われる真理は、その背後に様々な権力、力関係が絡み、私たちは、その権力の元に、動くしかありません。本当に、まっすぐな道を歩もうとするなら、「神が人となられた」イエス・キリストを見続けて行くしかありません。イエスはピラトに「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。私たちは、生涯かけて、イエスの声を聞き続ける者でありたいのです。 この多様な価値観が真理としてもてはやされる時代に、本当に狭い道、狭い門を通っていくことになります。週ごとに礼拝に集い、主イエスの声を聞き続けます。そして、「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。自分の悟りに入らないこと、主イエスの御声の聞こえるところに身を置き続けることです。


 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 

ヨハネによる福音書 14章6節

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