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2023年4月9日イースター礼拝説教(要約)


   説 教  希望の芽生え 

                  吉平敏行牧師


   聖 書  イザヤ書 54章4~10節

        ヨハネによる福音書 20章1~10 節

 ヨハネによるイエス復活の現場は、死者の復活という大事件のわりには、あまりに淡々としたものです。これほどの奇跡を、当事者はどれほどの驚きをもって受け止めたかと興味を抱きますが、実に淡白に報告されています。

  著者ヨハネは「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)と書くのですから、私たちがより信じられるようにという意図があるはずです。

  過越祭が終わり、安息日を経て、新しい週が始まりました。その早朝、マグダラのマリアが墓に行きます。2節に「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません」とあるように、女性は複数です。彼女たちは、イエスの遺体が葬られるのを見ています。特にマグダラのマリアは全福音書に記録され、復活直後のイエスとも話していますから、彼女の証言は大きなものでした。

  マリアは、墓から石が取りのけられているのを見て、「誰かがイエスの遺体を取っていった」と思い、墓の中には入らず、ペトロとヨハネに報告します。墓の中を確かめる余裕もなく一目散に走って行ったのです。その報告を受けて、ヨハネは、ペトロと一緒に墓まで走ります。そして、墓の中に、亜麻布とイエスの頭を包んでいた覆いが残っていたと報告しているのです。果たして、「誰かが取っていった」と考えられるでしょうか。

  イエスの復活を抜きに救いはありません。パウロが言うように、キリストが復活しなかったのなら信仰は無意味です。他の事は、何とか説明できるにしても、こと復活に関しては、私たちの想像を超えている。いや、全く想像できないものです。ですから、知りたいのは、事実は何か、ということです。

  復活した後、主イエスは多くの弟子たちに現れています。パウロは「使徒たちに現われ、次いで500人以上もの兄弟たちに同時に現れました」と書いています。しかし、イエスが復活した直後について、これほど生き生きと記された文書はありません。

  4節に「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた」とあります。こんな一刻を争う場面で、運動会の思い出話のように書かれているのです。生真面目な方々には、不謹慎とも思えるでしょう。しかし、「あの時、俺たち、全力で走ったよなぁ」といった思い出話こそ、事実、彼らが体験したことなのです。そこに証言の力強さがあります。

  ペトロとヨハネは一緒に走り、ヨハネがペトロよりも先に墓に着きました。ヨハネは、身をかがめて中を覗くと、そこに亜麻布が置かれてあるのを見ます。しかし墓には入っていません。続いてペトロが到着し、先に着いたヨハネより先に墓に入って、亜麻布が置かれているのを注意深く観察します。墓の入り口近くに亜麻布があったのでしょう。ところが、イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布とは同じところにはなく、少し離れた所にあったのです。つまり、一旦立ち上がって頭の覆いを取り、それから体の亜麻布を脱いだのではなく、頭を墓の奥に向けて置かれた。その頭の覆いが、体を巻いた亜麻布から離れたところにあったことから、イエスは起き上がって布を取ったのではなく、体の亜麻布と頭の覆いから、スッと抜け出たことを予想させます。その後、ヨハネが墓の中に入り、状況を認識して、信じた、というのです。

  しかし、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(9)とあります。これは、彼らが不信仰だったからではなく、今、その場で起こっていることの意味を私たちは理解できないのです。ヨハネは「見て、信じた」と書きますが、リチャード・ボウカムは、ここが「見て、信じた」と書かれていることに注目します。これは、イエスがトマスに言われた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)との言葉と結びつけて考えると、ヨハネも「見て、信じた」一人です。ボウカムは「愛弟子はペトロと同様に、後のキリスト者が見ないで信じることができるように目撃証言を提供している」(「イエスとその目撃者たち」p.397 新教出版社)と書いています。

  その日の夕方、復活した主イエスは弟子たちに現れて、ご自分の手と脇腹を見せています。弟子たちは、「主を見て喜んだ」と書かれていますが、それも「見て喜んだ」のです。しかし、復活を理解していたかどうかはわかりません。ヨハネは、イエスの「宮きよめ」の事件で、初めイエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われた意味がわかりませんでした。しかし、ヨハネは「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた(2:22)と書いています。弟子たちは、イエスが語られた言葉の意味を復活した後に理解したのです。

  イエス・キリストの復活は、死んでいた人が息を吹き返し、おもむろに起き上がって、外に出て行ったという話ではないのです。むしろ、復活は瞬時に全く新しい体になったことを想像させます。その点で、死んで4日も経って、イエスによって「復活」させてもらったラザロの復活と異なります。ラザロは確かに死に、姉のマルタも「4日もたっていますから、もうにおいます」と、ラザロの死を認めていました。しかし、イエスが墓の前で、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、死んでいた人が「手と足を布で巻かれたままでて来た」(11:44)のです。ラザロは体に巻かれた布をほどけないので、イエスが人々に「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。これが、ラザロの「復活」であり、私たちが考える蘇生でもなく、適切な言葉が見つかりません。しかし、イエスの復活は、瞬時に新しい体となり、巻かれた物を残して「復活」したのです。

  こうして、マリアの「誰かがイエスの遺体を取っていった」という可能性はなくなります。それは、私たちが、あるはずのものがない、と思った瞬間に、そう考えてしまう傾向があるのです。

  ただ、当時のユダヤ人たちも、終わりの日の復活は信じていました。イエスがマルタに「あなたの兄弟ラザロは復活する」と言われた時、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(11:24)と答えています。しかし、その復活が、どういう状態かは誰も知りません。

  ですから私たちの「体の復活を信じます」との告白は、イエスの体の復活から、死んだ私たちにも復活が起こるのかどうかが問われることなのです。

  パウロはこう記しています。


わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

コリントの信徒への手紙一 15章51~55節


  パウロが使う「一瞬のうちに」を、どう理解するのでしょう。

  永遠に生きるためには新しい体が必要です。神の国を受け継ぐためには、どうしても体が新しくなる復活が必要です。

  先日新聞のコラムにこんな記事を見ました。「そこが空洞なのに気づいてはっとなった。頼りないほどに、何もない、のである」(小川洋子)。小川さんは、文楽の人形を初めて近くで見ただけでなく、そのあと、衣装の隙間から手を入れさせてもらい、「ないけれどある、という矛盾をいとも易々と乗り越える」、人形遣いの、生身よりも切迫した腕さばきに圧倒された、という記事でした。(朝日新聞2023年4月8日「折々のことば」から)

  復活のキリスト。今はどこにおられるのか。全く新しい存在として、イエス・キリストを信じる私たちの内にいてくださると考えることはできないのでしょうか。そして、私たち生身の人間を導いてくださいます。さながら、文楽の人形のごとく、内におられるキリストが、神の手のごとく私たちを活かしてくださると考えたらどうでしょう。

  イエス・キリストを信じる者たちに与えられる希望は二つあります。生きている間、キリストと共に生きられるということ。そして、死んで後、やがての審判の日、一瞬にして新しい体になって復活するということです。それが、朽ちることない希望です。

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