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2023年4月23日 主日礼拝説教(要約)


   説 教  わたしに従え

                   吉平敏行牧師


   聖 書  列王記上 19章1~13節

        ヨハネによる福音書 21章15~19 節

 パウロは「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にある」(1コリ15:17)と書いています。イエス・キリストの復活は信仰の要です。しかし、その信仰は、今、どのように生きているのでしょうか。

  弟子たちは、復活の主と3度もお会いし、外見は変わっていても、主イエスが生きておられると信じ、もはやだれも「あなたはどなたですか」と尋ねる必要もありませんでした。トマスの疑いも晴れました。

  しかし、最後まで片付かないまま残ってしまったのはペトロです。湖畔の人物が主だと分かると、ペトロは上着を身にまとって湖に飛び込んだ、というのです。その慌てぶりは、何を示していたのでしょう。

  彼は、イエスが裁判を受けている大祭司の庭で、3度目にイエスを否んだ直後、主イエスの「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」という言葉を思い出し、外に出て大泣きしました。どれほど悔いたでしょう。「3度も知らないって言ったけど、復活されたのだから良いじゃないか」とは、全くふざけた話です。生身の人間の死が、どういうことを指すのか分かっていません。微動だにしない体、冷たく固まった、2度と戻れない死について知らないのです。死は罪の結果であり、神の裁きであり、神の配慮か、悪魔の手法か、人間には隠されています。しかし、もし、そこに光が当てられるなら、私たちが負った傷、悔いる思い、悲しみや憤りが現れ出てくるのです。その罪は、ただ主によってのみ赦されるものです。

  あの夜、イスカリオテ・ユダが闇の中に出て行きました。その後、イエスは残った弟子たちに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われます。ペトロが、「主よ、どこへ行かれるのですか」と聞き返すと、イエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と含みのある答え方をされます。ペトロはやっきになって「なぜ今、ついていけないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と断言したのです。その時、イエス様は「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と仰いました。別の福音書には、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったと書かれています。その「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」の言葉に、ここで主イエスが「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねた理由があります。他の誰よりも、イエスを愛していると思っていた。主は、ペトロの、その微妙な自負心を汲み取り、また、その自負心のゆえに傷つき、悔いることも多かったペトロに、敢えてそこから問うたのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」 

 この二人のやりとりには、微妙な言語の使い分けがあるので、こんな風に訳し替えてみました。


  イエスはペトロに「これらの人々以上に、わたしを愛するか?」と尋ねるとペトロは「はい、主よ。あなたは、わたしがあなたを愛しんでいることをご存じです。」イエスはもう一度ペトロに「ヨハネの子シモン。わたしを愛するか?」と尋ねると、ペトロはもう一度「はい、主よ。あなたは、わたしがあなたを愛しんでいることをご存じです」と答えます。そしてイエスは、3度目に「ヨハネの子シモン。わたしを愛しんでいるか」と尋ねます。そこでペトロは、イエスが三度目に「わたしを愛しんでいるか」と言われたのが悲しくなり、「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、わたしがあなたを愛しんでいることを知っておられます」


  この対話に意味があるのは、主イエスがペトロに、3度ご自分への愛を確かめたと言う、その回数でしょう。しかし、この対話には、もっと深い主のご配慮が示されています。

  それは、主イエスがペトロに、羊の群れを飼うようにと勧めていることです。15節では「わたしの小羊を飼いなさい」と書き、16節では「わたしの羊の世話をしなさい」、17節では「わたしの羊を飼いなさい」と訳されています。小さな羊を買うところから、大きく育った羊の群れを牧するに至るまで、主は、ペトロの応答に答えて、その大切な勤めをペトロに委ねられるのです。

  その対話を通してペトロの答え方も違っていきます。ペトロは、最初「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えます。2度目も同じ答え方です。しかし、3度目は「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。「ご存じ」と「知っておられる」は、同じように読めますが、「知っておられます」は、正しく認識しているという意味です。あなたは、私の心の隅々までお見通しです、と言える言葉です。

  こうした対話を通して、主は、ペトロの心に刺さったトゲ、自分の力ではどうにも抜き取ることのできない痛みを、一つ、一つ、丁寧な対話を積み重ねて、取り除いてくださいます。ペトロもまた、より深く主イエスの愛と懐の広さを噛み締め、「今度こそは」というような力みも取れて、本来の自分を取り戻していったのでしょう。主イエスは、ペトロの「あなたを愛します」と言い切れない弱さを受け入れ、主を愛することを、主の羊の群れを養い育てるという形で、新しい使命を与えてくださったのです。

  この時、主が言われた「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)という言葉の意味を悟ったでしょう。著者ヨハネは、19節で「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と解説しています。

  そしてついに、ペトロは、主に向かって「あなたのためなら命を捨てます」を、自分の人生において果たしていったのです。

  ペトロは、主の横を歩きながら、時に横顔を見ては、一対一で話しながら、彼の心は穏やかになっていったでありましょう。主イエスへの思いは、限られた言葉の中で精一杯伝えたでありましょう。そして、この後のペトロのキリストに従う者の生き方が、示されていったのでしょう。その終わりは、単に死で終わるものではなく、その死に方が、神の栄光を現すものであったことをヨハネは証言しているのです。

  こうした経験を経たペトロが、ベテランの長老の一人として、後に続く長老たちに勧めるのです。

 

あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。

 ペトロの手紙一 5章2~4節


  若き日のペトロは、「自分の帯を締めて、行きたいところへ行っていた」。自分こそキリストに従っているという自負心が彼を支えていた。しかし、そんな自分では、十字架までついていくことができなかった。敗北だった。しかし、復活の主を知った今、いや、全てを知られている今、後から続く右も左も分からない子羊のような信者を養い、それを群として育て、教会という大集団になって、全体を牧する立場と責任が委ねられていく。しかし、もう2度と主を否むことはないでしょう。今度こそペトロは「わたしに従いなさい」との主イエスの言葉に従っていったのです。

  信仰の始まりは、救いの教理も信仰の告白も意味することがよくわからず、ただ、イエス・キリストを信じます、と告白したところから始まりました。しかし、その素直さこそ、本物の信仰でした。自分はきちんと学ばずに洗礼を受けた、などと心配することはありません。主イエスは、あなたの心もとない、しかしはっきりと口にした告白を覚えていてくださって、様々なところを通りながらも、私たちを離れることはなかったのです。そして、この先も、最後に目を閉じる日まで、信仰の旅路が全うできるようにと導いていてくださるのです。

  ですから、主は、今日という日を定めて、改めてこう命じられるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」

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