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2023年5月7日 主日礼拝説教(要約)


   説 教  教会が若かった時

                  吉平敏行牧師


   聖 書  イザヤ書 6章1~8節

        使徒言行録 1章3~11節

 ここは、主イエスが弟子たちが見ている前で天に昇っていかれた「昇天」の場面です。使徒信条で「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白します。その天に昇られた後、イエス・キリストは私たちとどのようにつながっているのかを考えます。

  主イエスが去った後の弟子たちは、まだ主が伝えようとされた神の国について十分に理解できていません。主は弟子たちに、「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」(ヨハネ16:7)と言われました。主イエスが目の前におられれば心強い。しかし、いつまでもそのままでは、一人ひとりが自分の足で立つ助けにならない。かと言って、イエスがおらずして、彼らは自立できるのか。そこで、助け手が必要になる。わたしが去っていった後、わたしが弁護者を遣わす、と教えられたのです。

  救いはイエスの事実の積み重ねに基づいています。見えざる神の救いを伝える人がいなければなりません。その救いを地上で完成されたのがイエス・キリストであり、その方を信じれば救われるという知らせが福音です。そのイエスが天に昇られ、代わりに弁護者としての聖霊が遣わされた。そうなると、イエスによって完成された救いは、聖霊によって地上の弟子たちを通して伝達されることになる。ここは、その転換地点と言えます。まだ、聖霊は降っていません。

  主イエスは「エルサレムを離れないで、父が約束されたものを待ちなさい」と命じられます。エルサレムは、民の指導者たちがイエスを十字架に追いやった町、弟子たちにとっては神の国の宣教の敗北の町でした。ユダヤ人たちを恐れて身を潜めていた町です。できれば元の生活、あのガリラヤ湖周辺で漁をする静かな暮らしに戻りたい、と思ったでしょう。しかし主は「エルサレムを離れないで」と命じられるのです。

  失敗した過去の記憶は消せません。思い起こす度に、その時の気持ちが沸き起こり、心は呻きます。心して感情をコントロールしないと、気持ちが引っ張られ、その後の判断を誤らせます。ですから、主イエスは、その状態にある弟子たちに、わたしが話していたことを思い出せ、「神の約束を待ち望め」と命じられたのです。 

 その「父の約束」が「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」です。それこそ、イエス・キリストを通して、父なる神が与えてくださるものでした。  主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同3:5)と言われました。水とはヨルダン川の水に体を漬ける清めの儀式です。しかし、イエス様は、「新たに生まれる」、原意によれば「上から生まれる」あるいは「もう一度生まれなければならない」と教えられたのです。それが「霊によって生まれる」ことでした。神の国の入るためには、朽ちる肉体を捨てて霊の体を備えなければなりません。それが「新たに生まれる」ことであり、「霊によって生まれる」ことなのです。

  ここに、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」は、イエス・キリストによって神の国は到来したという福音宣教に代わります。イエス・キリストを信ずる者は、誰でも救われるのです。しかし、それを伝える弟子たちがまだ「神の国」を正しく理解していない。これまでイエスを見て、従っていったようにはできません。ここで経験しなければならないことが、聖霊によって新しく生まれる、その聖霊に導かれる、という生き方でした。

  「聖霊による洗礼」は、水に全身をひたすように、聖霊、神の霊に浸されること、聖霊に支配されて生きていく。その出発が「聖霊による洗礼」です。そのために「エルサレムに留まって、父の約束を待て」と言われたのです。  少し元気が出てきた弟子たちは、ついにその時が来たとばかり、自信を持ってこう語ります。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか。」ガリラヤの、言ってみれば田舎の漁師であり、口語訳で「無学な、ただの人たち」(4:13)などと訳されてしまった彼らが、国家を論ずる。異邦人に支配され、抑圧されてきた彼らは、祖国を取り戻し、自分を取り戻し、自分らしく神を讃え、自分らしく生きたい、という高邁な志を抱いたのです。

  主イエスは、「国を建て直す」という思いは否定されず、ただ時間的なことだけ仰います。それは神ご自身の権威に基づくものであるから、その時や時期に関しては、あなたがたは知らなくて良い、と仰るのです。むしろ、すぐ先に、父なる神がご自身の計画を用意されている。まず、そこで神からの力を着せていただきなさい。それをエルサレムで待ちなさい、と言うのです。その時、確かに「あなたがたは力を受ける」というのです。

  復活されたイエスは、新しい体を備え、弟子たちと語り、今、父なる神のもとに帰ろうとしておられる。その存在を、地上から天へと移される事になります。 9節に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と書かれています。イエスの体が、空高く上げられて、雲がその体を包み込むようにして見えなくなったのです。私たちは、飛行機が離陸後、遠い雲の彼方に消えていくことを知っています。しかし、鳥以外に空を飛ぶ存在など見たこともない時代に、主イエスが、そのように天に入られた情景が記録されているのです。使徒信条の「天に昇り」の告白も、天に昇っていく様を見た弟子たちの証言に基づくものだったのでしょう。

  「天に上げられた」の原語は「上げられた」だけです。イエスは「天」と呼ばれる領域に入られたのです。ヘブライ9:24では、「キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった」と書いています。「天そのもの」に入られたのです。そのイエスが、「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」とあります。それは、永遠に生きられる主が目に見える体で現れることを示唆しています。

  「天」とは、「空」でも、天体望遠鏡で見るような「宇宙」でもありません。被造物の全てを生かし維持している命の領域と考えることができるでしょう。まさに、神の支配、神の国、でもあります。こうして、聖書が約束する救いは、物質世界から霊の世界へと移されることであると知ります。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の元に行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われましたが、人として来られたイエス・キリストを見続け、そのイエスが天に入られたことを信じて、命に移された私たちも天に入ることができることを教えているのです。その天に、父なる神がおられ、主イエスがおられ、その天と私たちとを聖霊が結んでおられます。

  パウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3:1~3)と言いました。そこは、私たちの体がある場所ではなく、私たちの命、私たちの存在そのものがいる場所です。私たちは、霊において、父なる神と御子イエスがおられる天にいると教えているのです。

  今は、天に挙げられた主イエスを見上げ、その主が再び姿を伴って来られるのを待ち望みます。主イエスが見えないのは寂しい。しかし、その主は再び来られます。それを確かに教えてくださるのが聖霊です。そこに希望があります。

  その希望が数々の困難を乗り越えていく命となり、エネルギーとなっていく。やがてキリストの体である教会は、宣教の業を引き継ぎ、福音宣教により新しい種が蒔かれていく。それが成長して、やがて鳥が来て巣を作るほどになる。今日、教会が福音によって世界中に建てられて広がっている美しいイメージです。

 今、教会は、様々な困難に直面しながら、教会を建て上げていく最も大切な命を取り戻さねばなりません。主イエスは生きておられ、再びやって来られるという希望を大胆に告白する必要があります。

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