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2023年5月14日 主日礼拝説教(要約)


   説 教  本当の信仰が与えられるために

                  吉平敏行牧師


   聖 書  創世記 17章1~8節

        ガラテヤの信徒への手紙 3章15~22節

 主イエスは、律法や預言者を廃止するために来たのではなく、完成するために来たと言われ、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。律法(トーラー)はヘブライ語で書かれています。その単語の一文字、一点、一画まで、必ず実現すると言われたのです。その一点とは、ヘブライ語ではヨッドというアルファベット、一画とは、動物の角のような形をしたヘブライ語のアルファベットですが、そんな小さな単語であっても神の言葉として、決して取り消されることもない、と言われたのです。律法の言葉がどれほどの重さをもって受け止められていたかが分かります。

  パウロが引用した創世記の「アブラハムの子孫」という単語が複数形ではなく単数形であることに目を留め、約束と律法との関係を論じていきます。今日の17章7~8節では3回も「あなたの子孫」と出ていました。驚くのは、パウロが一つの単語を取り上げ、それが単数形か複数形かで論じていく、その手法です。これは当時のラビたちが行なっていた聖書の読み方かもしれません。

  パウロが伝えたかったのは、アブラハムの子孫だと誇るユダヤ人すべてがアブラハムの「子孫」ではなく、一人のユダヤ人を指していると言いたかったのです。それがイエス・キリストです。パウロは、まだ聞きかじりの律法を行おうとするガラテヤの信徒たちに「書かれた書物、聖書はこう読むのだ」と言わんばかりの読み解き方をしています。彼の専門性が遺憾なく発揮されていると見ることができます。

  15節以降で「遺言」と「契約」と訳し分けられた原語は同じですから、「契約」で訳している聖書もありますが、新共同訳はそれらを訳し分けています。私たちが知る遺言という考え方にならえば、一旦、相続者が決められたら、途中で法が作られたとしても、その法によって遺言が無効になることはない、ということです。そうすると、途中で出てきた律法の役割とは何か。そこで「では、律法とはいったい何か」と問うのです。

  パウロによれば、430年後に与えられた律法は、その約束の一人が来るまで、人間の違反が明らかにされるために「付け加えられた」ものだと言います。神が定めた法が、違反を増し加えるために使われるとは思ってもみなかったでしょう。そんな大切な文書を、神はどのように書き、どうやってモーセに手渡したのか。初めは、神が語れた言葉をモーセが書き記していますが(出エジプト24章4節)、後では「教えと戒めを記した石の板」であり、「神の指で記された2枚の石の板」(31:18)となってモーセに与えられます。神が石の板に文字を刻み、その板をモーセに手渡すものがいたことになります。そこに「仲介者」が必要となります。それが「天使」の役割です。あの羽の生えた可愛らしいエンジェルではなく、主の使いとして、主の言葉を直に人に伝える人々としても創世記には出てきます。

  人間の社会で使われる遺言の場合は、故人の遺志が文書に書き残され、その人が亡くなった後、実施されます。書かれたものが次から次へと伝達されるために、何人もの仲介者が必要となります。ところ神はお一人であり、永遠に生きておられる方の約束ですから、仲介者は要りません。神がいつでも「わたしが約束したのだ」と仰られるのです。

  では、律法はいらないではないか。パウロの論理によれば、その律法が違反製造機となってユダヤ人は約束を受け損なってしまう。律法が、もし、人に命を与え、生かすことができるものであれば「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(3:12)ことができたのです。そうすれば「律法によって」義とされることも可能だったはずですが、聖書は全ての人を罪のもとに閉じ込めたと言うのです。

  パウロがここを「聖書」と書いているのは、聖書と律法とを区分し、聖書は「福音」を記していて、順番としても律法に優先するということです。「聖書」の原意は「書かれた書物」です。その書物に福音が記されている。私たちは、旧・新約聖書を合わせて「聖書」と呼んでいます。律法よりも前に書かれた書物があり、そこに神が約束した福音が記され、アブラハムに語っていたというのがパウロの福音理解です。福音こそ神の約束であり、聖書の中心的なメッセージであるということです。

  パウロによれば、イエス・キリストを信じることで、ユダヤ人にも異邦人にも分け隔てなく、アブラハムに与えられた祝福が与えられることになります。自分は異邦人だからといってユダヤ人に対して何か劣るところがあると考える必要もなく、また誇るものでもありません。神は民族の枠を超えて異邦人にもユダヤ人と同じ祝福を与えてくださったのです。

  そこで、福音を信じたからには「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく」という関係になります。全ての国の人々がキリストによって一つとされることが神のご計画であり、約束でした。一人の神が、世界の基の置かれる前からご計画され、アブラハムを選び、その子孫が増えてイスラエルの民となり、そこに約束の一人の子孫イエス・キリストがお生まれになる。そのイエス・キリストによって全ての人の救いが完成したので、イエス・キリストを信じれば、だれでも祝福されるのです。

  とするならば、厳格に守るよう求められた律法の意味はどこにあるのでしょう。異邦人は初めから律法の外にある罪人でした。では、律法を守ってきたユダヤ人は、律法を守っていれば救われるのか。そんなことにはなりません。律法を持つがゆえに、その法を守りきれないで罪を犯し、犯罪者となって神に裁かれてしまう。こうして、律法があっても、その律法のゆえにユダヤ人も罪人となり、異邦人もなくユダヤ人もなく、すべての人が罪に服することになります。そこに、人は、あくまでも「イエス・キリストを信じる」ことによってのみ救われることになります。

  きちんと考えたら、こんなにもややこしく複雑な救いを、私たちはイエス・キリストを信じただけで、いただいたことになるのです。しかし、そこまで分からなければ信仰とは言えないのか。そんなことはありません。イエス・キリストを信じます、の一言でいいのです。信じれば、瞬時にこんなにもたくさんの情報が一塊りで与えられるのです。なぜなら、救いはイエス・キリストご自身だからです。イエス様を信じ、イエスがキリストであると知った、ということで良いのです。

  イエス様は「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われました。悔い改めてイエス・キリストを信じることによって、だれにでも、分け隔てなく救われると言っているのです。それが神の約束であり、アブラハムを通し、モーセの時代に律法が与えられ、やがて来られるアブラハムの一人の子孫、イエス・キリストに相続される。ユダヤ人は、その約束が実現するまで律法は違反製造装置として機能する。それは、異邦人はもとよりユダヤ人も例外なく、すべての人が罪に服し、その約束の祝福に与るためであるというのです。

  こうした律法の役割(機能)を今日の教会に当てはめたらどうなるでしょう。イエス・キリストを心で信じただけでは救われないのか。水の洗礼を受けることはどうしても必要なのか。憲法や規則を守る意味はどこにあるのか。クリスチャンホームに生まれた人たちは、神の祝福の中に生まれているではないか。そのままではいけないのか。幼児洗礼を受けていれば救われたことになるのか。

  一方、キリスト教に接してこなかった人々は、信じることはいいけれど、洗礼を受け、教会員としての務めを果たす、奉仕をする、献金をしなければ救われたことにならないのか。こうした信仰生活の実際をどう考えたら良いのか。

  信仰年数が長ければ長いほど、キリスト教の信仰について正確な理解が求められていきます。それを正しく知り、学びと経験を積み重ねていくことで、私たちは救いの確かさを噛み締めていくことになるでしょう。多くの、いろいろな人たちで成り立つ教会において自由であるために、私たちは聖書から学んでいきます。それによって信仰の自由さは増していくのです。

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