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2023年5月21日 春のオープン礼拝説教(要約)


   説 教  信じるということ 

                 吉平敏行牧師


   聖 書  ルカによる福音書 17章11~19節

 今日の話は、イエス様に病気を癒していただいたのだから、まず、きちんとお礼を言うべきだろう、という教訓話ではありません。そういう「お説教」にならないために、イエス様が言われた「あなたの信仰があなたを救った」の「あなたの信仰」について考えてみたいと思います。

  重い皮膚病に罹っていた10人全員が癒されたのです。しかし、イエス様に、「あなたの信仰」と褒められたのはこのサマリア人一人でした。残りの9人のユダヤ人も癒されたのですが、彼らの信仰については言及されていません。  今回のテーマは「からし種一粒ほどの信仰」です。

  使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。 「信仰を増してください」とは「信仰を与えてください」という意味です。信仰は量で測るものではなく、持っているか、持っていないか、です。弟子たちは「本当の信仰をわからせてください」と願ったのです。  それに対して、イエス様は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰・・・」とお答えになった。イエス様は魔法の学校の先生ではありません。自分たちは小さな信仰しかないので、師匠から、もし信仰が増せば、どれほどの力を示すことができるか、と願ったのではありません。

  重い皮膚病にかかっていた人たちは、遠く離れて、「わたしたちを憐れんでください」と大声で叫び続けました。彼らは、どんな病をも癒すイエスが、自分たちの近くを通るという噂を聞いて、その一瞬を逃すまいと、イエス様の姿を見るやいなや、助けを乞うたのです。イエス様は、彼らの様子を見て、すぐさま察知されたのでしょう。その場で、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのです。

  彼らの訴えは切実です。だから、イエス様のわずかな言葉であっても、聞き漏らすまいと思ったでしょう。そういう意味で、イエス様の言葉に直ちに従って行動したのは信仰でした。すると、10人とも体がすっかりきれいになったのです。

  サマリアとガリラヤの間。先祖は同じ民族でも、宗教上の理由で今や二つに分かれている。そうした緊張のある地域。そういう両者の間をイエス様が敢えて通られる意味とご目的はあったでしょう。

  心情的に、あるいは信仰として、どちらに属しているのかはっきりしない状態。どちらか一方に傾いても緊張が起こる。そういう微妙な中間地帯に主は立たれます。

  信じてはいるけれども洗礼は受けていない。クリスチャンホームに育った。キリスト教主義の学校に行っていた。基本的にはキリスト教だ、と思っている。しかし、敢えてそれ以上踏み込もうとしない。一方で、信仰を告白して洗礼まで受けたが、自分の信じ方が、本当に信仰と言えるのか、もう一つ確信が持てない。それを決めるのは、神様の領域だと思って、積極的には考えないようにしている。

  そういう意味で、今、自分が信じている事柄について、本当のことが分からない。これで良い、と思える信仰には、何が必要なのか。誰か、権威のある人から「それで良い」と言ってもらいたい。  今日、私たちが置かれている空間、環境は、まさに中間地帯です。見えない境界線、分類、レッテル貼り、そういう中間状態をイエスは通っていかれます。イエス様は、一人一人を見ておられます。

   重い皮膚病に罹った10人が、イエス様の言葉に従い、それぞれの場所へ向かって行く途中、全員が清くされたことを知りました。「わたしたちを憐れんでください」と訴えた10人全員が癒されたのです。それも信仰と言えるでしょう。そのわずかな信仰、わずかな期待。言ってみれば「からし種一粒ほどの信仰」でした。それに対してもイエス様は答えられた。イエス様は、それを信仰とみなされた。しかし、その自分の信仰を確認できたのは、イエス様のところへ戻ってきたサマリア人だけ、ということになります。

  そこから、このサマリア人は考え始めたでしょう。どうしてイエス様は、このような人間が隔離されている村を通られたのか。自分は、病気が治ってから祭司のところへ行って診てもらうものだと思っていた。しかし、イエス様の言葉を聞いて、動き出した途中で清くされた。順番が逆ではないか。彼は、とにかく、清くされたことが嬉しくて、大声で神を賛美しながらイエス様の方に戻ってきたのです。彼は、この方こそ、「憐れんでください」に答えてくださった方と知ったのです。

  イエス様は、最初にサマリアの町で出会った女と、礼拝する場所をめぐってこう言われました。


あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。

 ヨハネによる福音書4章21~23節


  もうどの場所が神を礼拝する正統な場所だとする時代は終わったのです。なぜなら、神は霊であり、どこにでもおられるからです。

  イエス様は、この一人のサマリア人を「外国人」と呼ばれました。この「外国人」は「異邦人」とは異なります。ユダヤ人でもなければ異邦人とも言えない。それがサマリア人でした。彼らは皆「重い皮膚病にかかっていた」がゆえに、人々から隔離されて、社会から見放されていた人たちです。そんな状態に置かれながらもなお差別がある。ユダヤ人から見下されていたサマリア人は、最下位に属する立場となります。まさに「外国人」と呼ぶしかない彼に、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。彼は、イエス様のところで、初めて「あなたの信仰があなたを救った」と、いう権威ある言葉を聞いたのです。やっと、自分を認めてくれる人に出会った。これで良い。それがイエス様の言葉でした。

  9人のユダヤ人は、神が清くされたのだと知ったのであれば、なぜ、その神とイエスとを結びつけて考えなかったのか。彼らはエルサレムの神殿で祭司に診てもらって社会復帰したでしょう。しかし、このイエスをメシア、キリストと信じるに至らなかった。感謝も湧かなかった。

  ユダヤ人なら、様々なことを考えたでしょう。なぜ、自分がこんな罪の病に罹ったのか、自分の先祖が罪を犯したのか、自分が罪を犯したのか。なぜ、体が清くされた時、自分の罪が赦されたと考えなかったのか。自分の信仰が正統かどうか、自分の信じ方で良いのかどうか、まして、救いが本物かどうかなど、人に断定できません。ただ、一つ、確かに言えることは、救いとは罪の赦しである、ということです。憐れんでいただいたとは、罪が赦されたことを知っているということです。

  この新型コロナウイルスに苦しんだ3年を経て、全ての国、全ての産業、全ての人の生きる価値観までがふるいにかけられ、変えられました。もはや、これが正しいという答えは見つかりません。自分で確信したところに立つしかないのです。本当に必要なもの、なくてならないものを考えざるを得なくなりました。

  新型コロナがパンデミックと呼ばれるような段階入った当時、長崎大学熱帯医学研究所教授のインタビューが新聞に出ていました。その山本太郎教授は「『3蜜を避けろ』『大声で話すな』と、人との距離を保つことが求められますが、新たな近接性を模索していくことも必要だと思います。物理的な接触は減っても、共感を育める近接性のある社会です。そうした共感がヒト社会をつくってきたのですから」と語っておられました。私たちは、今こそ、人としての「共感を育める近接性のある社会」に向けて動き出さねばなりません。

  様々な必要を抱えながら、そのどちらともつかない者たちの間をあえて通られて、私たちが本来あるべきところに立つようにとイエス様は探し出してくださいました。礼拝が守られたことに、主の憐れみを見出せる者は幸いです。このコロナの只中で、「イエス様、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ祈りに、主が答えてくださったのだ、と、受け止められる人は幸いです。今、私たちに求められているのは、イエスご自身の前に跪いて礼拝することです。

  その時、「あなたの信仰があなたを救った」と言われる、主イエスの声を聞くことができるでしょう。もう、中途半端な状態から解放され、立ち上がるときが来ているのです。

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