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2023年5月28日 ペンテコステ礼拝説教(要約)


   説 教  多様であり、一つ 

                  吉平敏行牧師


   聖 書  ヨエル記 3章1~5節

        使徒言行録 2章1~13節

 「霊」といい、そこに「聖」が付いた「聖霊」といい、漢字の霊が重々しく、未だに素直に「聖霊を信じます」と言えない何かがあるのではないでしょうか。むしろ、今日は、理性や科学が信仰と呼べるほどの位置を占めています。そういうこともまた世の霊であるということに気がついているでしょうか。

  旧約聖書のコレヘトの言葉に「日は昇り、日は沈みあえぎ戻り、また昇る。(1:5) とあります。これは、見たままの現象に感想を加えたもので、科学的な記述ではありません。地球が自転してため、そう見えるぐらいは知っています。新共同訳の「あえぎ、戻り」を新改訳は「元の昇るところへと急ぐ」と訳しています。太陽が、翌朝までに、反対側の地平線から昇るまで地面の下を急いで移動している、まさに舞台裏をみるかのような面白い表現です。どんな理屈をこねても、広い海に夕日が沈む光景は美しいものです。パウロが「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1:20)と書くとおりです。神の偉大な力は、被造物によって、被造物を通して明らかにされ、そこから神を知ることができるというのです。 パウロはコリント書一で 目が見もせず、耳が聞きもせず、 人の心に思い浮かびもしなかったことを、 神は御自分を愛する者たちに準備された と書き、 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。 (コリント一2章9~10節) と説明します。

  神は霊であり、神を愛し、礼拝する者たちに、思いもよらなかったものを、わからせようと準備しておられる。人間の知識や情報、科学的知見によっては決して知ることのできない存在が神です。  そうした「霊」や「聖霊」をどう理解していったら良いのか。

  洗礼者ヨハネは、イエス様をこんな風に語りました。


 わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

ヨハネによる福音書1章32~34節


   ヨハネは、霊が鳩のように天から降ってきて、その人の上にとどまっていることを目撃して、この人を「神の子」であると、証しました。イエス様は、自分を訪ねてきたニコデモに だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 (ヨハネ3章5~6節) と言われ、 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。 (ヨハネ3章8節) と言われました。霊は目には見えない。それは、風の道筋と同じである。風が吹くところ、木々が揺れて、擦れる音がするから風が吹いたと分かります。同じように、神の霊が吹くところでは霊によって生まれる人が起こされる。イエス・キリストを信じて、洗礼を受ける者が起こされる教会には、聖霊が吹いていると考えられます。

  ペンテコステの聖霊降臨も、弟子たちや多くの人々に分かるような、特別な現象を伴っていたのです。天、つまり、上の方から大きな音がして来て、何かが降りてきたとがわかりました。異常な現象ですが、それを自然を指す言葉を用いて「激しい風が吹いてくるような音」と説明されます。それが、「彼らが座っていた家中に響いた」のですから、体でも感じたはずです。そうした現象は、ことごとく人間にわかるようにという、神の配慮と考えられます。  列王記上19章で、エリヤがイゼベルから逃れ、神の山ホレブに着いた時、主から「山の中で主の前に立つように」と言われます。そこに立つと、「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた」(列王記上19章11節)とあります。主が通られたことが分かるように「非常に激しい風」が起こったのです。しかし、そうした現象だけでは、聖霊が何かが分かりません。

  そこで、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれています。「炎のような舌」が「一人一人の上に分かれてとどまった」ことにより、一つの霊が天から降って、信者一人一人に別れ別れにとどまったことが見えたのです。その結果、そこにいた弟子の一同が他の国の様々な言葉で話し出したのです。その現象をルカは「聖霊に満たされて」と書きました。

  五旬祭のために、ギリシア世界各地で生活していたユダヤ人がエルサレムに上ってきていて、そこでガリラヤ出身の弟子たちが自分たちの国の言葉を流暢に話すのを聞いたのです。今の語学学習者には、まことに羨ましい話です。エルサレムのその場に集まっていた人たちが、どういう地域から来た人々であるかが9節以降に記されます。ユダヤのエルサレムを中心に、東から北、西から南へと反時計回りに記されています。こうした書き方から、当時の人々の世界観を知ることができます。弟子たちが思い描いた「地の果てまで」(使徒1章8節)が、どれほどの地域を指すのか分かってきます。

  人々はその大きな物音に驚き、さらに弟子たちが外国語で話しているのを聞いて、「一体、これはどうしたことか」と戸惑いながら「あの人たちは、新しいぶどう酒によっているのだ」と、多少冷やかし半分に言ったのでしょう。しかし、それは、聖霊に満たされた弟子たちの楽しげな様子をよく表しています。聖霊が満ち溢れる礼拝には、そんな楽しい雰囲気が現れても不思議ではないでしょう。大切なことは、この現象が、聖霊が遣わされたことを示していたということです。

  聖霊が降るという出来事は、異邦人にも聖霊が与えられるという出来事によって宣教の大きな転換となります。

  地中海に面するカイサリアに駐軍していたイタリア隊の百人隊長のコルネリウスの元に導かれたペトロは、そこにいる人々に福音を伝えます。すると、その場にいた異邦人に聖霊が降ったのです。そこで、ペトロたちは、イエスの名によってその人たちに洗礼を授けます。その時ペトロは、こう述べています。 わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです。そのとき、わたしは、 『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。 (使徒言行録11章15~17節)

  ペトロは、自分たちが経験したペンテコステの聖霊降臨が、異邦人にも起こり、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた出来事と結びあわせて説明しています。後に、ユダヤ人たちは「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」(使徒11:18)と言って、神を賛美したのです。  異邦人である私たちが、イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということは、聖霊の働きがあったからです。風が吹くように、イエス・キリストを信じて洗礼を受ける人が起こることによって、そこに聖霊がおられると考えられます。また、今、礼拝を捧げているこの場にも聖霊はおられるでしょう。

  パウロは、信仰者の賜物について、 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。 (コリント一12章11節) と書いています。使徒言行録2章4節の すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした に通じます。唯一の霊が、望むままに弟子たちに語らせました。教会(信者)が、聖霊に満たされる時、皆がキリストにあるまとまった行動を取ることができるでしょう。そこに一つの霊によって生まれた共同体があります。皆バラバラのようで、キリストにあって一致している。このペンテコステの「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という表現を思い起こさせます。多様性とはバラバラというのではなく、聖霊による個々人の賜物の多様さであり、一つにまとまった上でのことです。個性が認められて初めて多様であると言えます。

  私たちは、この世の霊の中にいて、聖霊を単なる力、あるいは得体の知れないものと考えていなかったでしょうか。聖霊は、教会の交わりを導き、養い育ててくださっている神の霊です。さらに理解を深めたいと思います。

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