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2023年6月4日 主日礼拝説教(要約)


    説教  約束による相続人

                  吉平敏行牧師


    聖書  詩編 8編2~10節

        ガラテヤの信徒への手紙 3章23~4章7節

 せっかく礼拝に来たのに、今日のような箇所が読まれると、信仰とは、そんなに理屈っぽいものかと思われるかもしれません。しかし、こういう難解な箇所ですら、神のご計画があって、私たちが気づかないでいる、新しい視点を与えてくれるのかもしれません。

  信仰は、「一粒の種」に例えられたり、「泉」に例えられたり、様々な比喩で語られます。「命」という説明を要しない言葉も、いざ「命とは何か」と問い始めると、途端に分からなくなります。そこで、当面は、信仰とは生きたもの、命そのものであり、その命はイエス・キリストであり、聖書はその方を伝えている、と考えておきましょう。

  当時の弟子たちはイエスを目で見、直に話を聞いていましたが、目の前の人が神の子であると信じられとなると、それも大変だったでしょう。私たちは、イエスの歴史性を問い、聖書の真実性を探ったりしますが、それも素直に信じることを難しくさせます。私たちは、使徒パウロの手紙を通して、イエス・キリストによる救いを別の角度から学び、聖書が教える救いについて正しく知りたいのです。目で見えない、手で触れないから、どうしたら信じられるのか。信仰には理屈もあるのです。

  23節の「信仰が現れる前」とは、擬人法であり、信仰そのものであるイエス・キリスト来られる前、私たちにとっては、イエス・キリストが明らかにされる前、とも言えます。律法は、そのイエスが来られる前まで、イエスがキリストとして啓示されるまでの「養育係」となったというのです。「養育係」とは、家庭教師のような優しい存在ではなく、戦前の訓導を意味するような、鞭を使って姿勢を正したり、悪さをしないよう警告したり、厳しい躾役を意味します。

  それほどユダヤ人の宗教教育は厳しく、一挙手一投足、管理され、拘束されました。特に安息日律法は徹底されていました。律法が神に代わって権威を持ち、それに逆らい、破ることは罪であり、神に裁かれることになります。強力な因果応報的な考え方にまで追い遣ります。今日では「宗教二世」というような、本人が何も認識できない内に戒律の縛りを負わされてしまうような方々もおられます。宗教は、教え、治め、糾す者の指示や命令が神的権威を持つことになりますから、より深刻です。仏教にも戒律があり、神道や新興宗教にも、型や教えの縛りがあって、信者を精神的に追い詰める材料はあります。ユダヤ教の律法、イスラム教のコーラン、キリスト教の聖書といった「聖典」を持つ宗教は、言葉によって記され、規定するため、その文言どおり人に実行させようとすると、人間性を失わせる危険性を孕みます。イスラム原理主義者らの偶像破壊はその現れです。

  ガラテヤの信者の中には、ユダヤ教の律法・習慣に惹きつけられ、それを守り、行うことによって本物の信仰になると思い始める者がいました。もともと異教徒であった者たちが、聞きかじりの律法理解から、ユダヤ人のように、自分たちも律法を守ることが、救いの完成につながると思い始めたのです。それは、パウロが伝えた福音ではありません。間違った教えを説く者が入り込み、「別の福音」(1:7)が伝染していったのです。信徒は、あたかも魔法にかけられたかのように、律法を行うことに注意が向かい、自由であった交わりが冷めていった。互いを監視し、裁き合うような刺々しい関係が生まれてきたのです。

  宗教改革者マルティン・ルターがガラテヤ書を「自由への大憲章」と呼んだのは的を射ています。せっかくイエス・キリストを信じて自由にされた信徒たちが、こともあろうに律法の奴隷に戻っていったのです。

  そこに、「聖典」という文字によって書かれた「神の言葉」を持つ宗教の怖さがあります。自分勝手に読んで、書かれた言葉を徹底しようとすると原理主義に陥ります。パウロは、それを「律法の呪い」と呼びました。それが信仰の目指すものではありません。

  パウロは、律法が、信仰の目的を果たすために必要であること、律法は良いものであり、神の計画の中に組み込まれていたことであり、その向こうに、本物の信仰、イエス・キリストに結び合わされる訓導としての役割を担うものである、と言います。

  日曜日に礼拝を守ることも、聖書を読むことも、祈ることも、人の営みです。しかし、人間の営みながら、そこに命があり、信仰者の群れ、共同体としての教会を神が導いておられる実際があるのです。そのためにも、イエス・キリストを正しく知ること、イエスが人間の歴史に、ユダヤ人家庭に生まれ、律法の縛りの下に置かれ、律法を全うしたにもかかわらず、なぜ捨てられることになったかについて、考えることになります。神と人間の間に立ち、罪に死んでいる人間に永遠の命を与えるなどということが、どうしてできるのか。また、時代や場所を超えて、イエス・キリストを信じるだけで人が救われるとは、どういう仕組みになっているのか、といった救いの筋道を知ることが必要です。まず、イエス・キリストを信じるところから入る。宗教の入り口は、そこにあります。全課程を学んで理解してからというのは、教育、学問の世界です。その領域では、学べば学ぶほど疑問が湧いてきます。信仰は、そういうプロセスを辿りません。

  なぜ、イエス・キリストにつながるために、これほど面倒な事柄を理解しなければならないのか。信仰とは、誰でも入れるものではないか。そのとおりです。私のように非キリスト教的背景で育った者には、イエス・キリストが本物の神だ、と知っただけで十分でしたが、クリスチャン家庭に生まれたり、キリスト教主義の学校を出た方々にとっては、救いの理屈を知ることが必要でしょう。この世の複雑な問題の渦中を生き抜くのに、信仰だけで大丈夫なのか、という課題にもなります。それは「信仰」を正しく知らないことからくる誤解です。教会は理想郷ではありません。聖典や典礼がある限り、様々な規律を守らない人を裁くような思いが発生しやすくなります。そうした問題も、パウロが記す律法の役割を正しく理解することで避けることができます。

  4章3節に「世を支配する諸霊」という言葉が出ています。それにふさわしい的確な用語はありません。初歩的な教えとも訳されています。宗教に関する原初的な教えや感覚が、霊的存在として人の心や考えを支配しているために、聖書が約束している救いがわからなくなっている。聖書が、人を縛るものになっていく。そうした魂や霊といった目に見えない領域を支配しているのが「世を支配する諸霊」です。そういう諸々の霊の領域、まさに雨雲を抜け出るように、本物の救いであるイエス・キリストに結びつく。そのために、律法は、後見人や管財人のような役割をして、神の祝福へと導くのです。そういう図式になっています。

  そういう「世を支配する諸霊」を抜け出すために、神の霊による理解と実体が必要になります。それをパウロは「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊と書きます。「アッバ」はヘブライ語で「父」を意味します。イエスが、ご自分の父である神に向かって「アッバ」と、叫んで救いを願った、その御子イエスと同じ霊が、私たちに遣わされる時、救いは成就したと言えます。その時まで、どんなにもがいて暴れても、自由にしてくれと叫んでも、訓導は許しません。時に鞭打たれるかもしれない。しかし、ちょうど良い時が来て、イエス・キリストを知るに至る、それが「信仰が現れる」時です。その時、我々はもはや奴隷ではなく、神が用意された一切の相続財産を味わう神の子供としての立場を得たことになるのです。

  浄土真宗の門徒に「妙好人」という特別な信徒が現れることは知られています。宗教的に超越した信者で、宗教学者によっても認められています。

  その妙好人が、お寺の御堂で寝ていました。寺の住職がやってきて、「こんなところに寝ているとは、御本尊に失礼ではないか」と叱りますと、その妙好人は、「俺が、自分の親父の前で寝ていて、何でそんな気を遣う必要があるのか」と、切り返したと伝えられています。教職ではなく、戒律のもとでしっかりと、その本質を身につけた者に与えられる自由と言えるでしょう。

  万物を造られた天の父に向かい、天を仰ぎながら「お父さま」と呼びかけることのできる幸いこそ、御子イエスの霊によるものであり、神の約束によってアブラハムの子孫、全財産を委ねられた者とされた証しなのです。

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