top of page

2023年6月11日 主日礼拝説教(要約)


   説 教  あの幸せはどこに

                吉平敏行牧師


   聖 書  詩編 73章1~20節

        ガラテヤの信徒への手紙 4章8~20節

 今日の箇所ほど、パウロの人柄が現れ出ている箇所はありません。彼は、自分の本音を伝えることができるかどうか、ためらいながら、心を込めて書いています。パウロの心からの願いを届け、信徒たちの心に、もう一度イエス・キリストがはっきりと描き出されて、元の関係に戻って欲しい、そんな思いが表れています。

  パウロが、最初の伝道旅行で立ち寄った時から度々滞在し、語ってきたガラテヤの信徒たち。その一人一人の顔を思い浮かべながら、今の教会の直面している問題が収まって欲しいと願っているのです。

  問題といっても、偶像礼拝者や不道徳なことをしている者が出てきたわけではありません。ただ、信徒たちは、偽りの教えに乗ってしまい、中には、パウロを否定する勢力に加担し、仲間を作ろうとしている者も出ています。ややこしいのは、自分たちこそ大真面目に信仰の王道を歩んでいると思っているところです。パウロの方こそ、正統な信仰から逸れているのではないか、それで使徒と言えるか、とまで疑い始めていたのです。

  その願いが表れているのが19節です。「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」あの生まれたての赤ちゃんのような、素直な信仰を取り戻して欲しい。言っていることは、そのとおりだけれど、初めて福音を聞いてイエス・キリストを信じて、聖霊に満たされたあの日のようではなくなっていたのです。

  ガラテヤの信徒たちは、パウロに会う前は、本来は神でもない、多神教の神々を拝する異教徒でした。それが、パウロから本当の神、イスラエルの神の話を聞いた。東のユダヤの国のイエスなる人物に起こった十字架と復活という出来事と、その方がメシア、神の子であり、その名を信じる者は、だれでも救いに与れるという話です。パウロから話を聞いているうちに、イエス・キリストが十字架に架けられた姿がはっきりと浮かび、その方が自分の罪のために死んでくださったこと、罪から救い出してくださったことを知りました。自分から洗礼を申し出る。そして、パウロに、どれほど感謝したことか。

  中には、マラリヤで目の病に罹ったとも言われるパウロに、「自分の目をえぐり出しても与えようとした」とまで言ったというのです。それはどんな言葉であったか。半分は冗談で、あるいは泣きながらそう語ったかもしれません。その場は、穏やかで暖かな雰囲気に包まれたでしょう。キリストにある幸せは大きかったのです。

  それが、信仰を持って福音を聞いた頃のあなたたちであった。それが今、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしている」(9)というのです。「支配する諸霊」は「世の初歩的な教え」とも訳されます。ユダヤ暦にある日や、月や、季節、年の祭りを守るようになる。さらに食べて良いもの食べてはならないのも、といった食物の規定を守るようになる。特に割礼を受けるかどうかまでが問題になるほどでした。

  異邦人であった彼らが、イエス・キリストを知り、律法について学び、それを行えば、自分たちの信仰も完全なものになるのではないかと思い始めていたのです。パウロに対しても、「律法を守ろうとしているのに、どこが問題なのですか」と憤慨するようになっていた。彼らの律法理解など、律法を専門に学んだパウロからしたら、聞きかじりで、到底律法などと呼べるものではない。そうした影響は、結局は、世を支配する諸霊の働きにすぎない、というのです。

  パウロは「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします」とまで書くのです。使徒パウロが「わたしのようになってほしい」というのは、パウロのような逞しい伝道者になって欲しいということではありません。次の「あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした」という言葉は難解です。私は「あなたがたは、わたしに間違ったことをしたということではありません」と訳しました。信徒たちがパウロに何か不当な扱いをしたということではないのです。そして、パウロは彼らとの最初の出会いを記します。 

 それと似た言い方に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(コリント一11:1)があります。それが使われているコリント書では、パウロがあらゆる場面で、自分自身の益を願ったのではなく、多くの人の益を考えて、すべての人を喜ばせようとしていたと書かれています。パウロは、何ものにも囚われませんでしたが、律法を重んずるユダヤ人には、律法に支配されている人のように、律法を持たない異邦人に対しては、律法などないかのように振る舞ったのです。そうした柔軟性は、その場その場の対応ではなく、よく考え、計算し尽くして、なんとかして何人かでも救うためであったとあります。

  信者の中には、福音を聞いて、言葉(ロゴス)の力を深め、ギリシア世界で生きる教養を得て、大金持ちにまでのし上がった人々も出てきたでしょう。律法を知って、ユダヤ人とも話が通じる重宝な人として用いられたかもしれません。それは、パウロに言わせれば、王様気分で、いっそのこと本物の王様になっていたら、自分たちも引き上げられたであろうに、と皮肉まで語ります。そして、もし、与えられたものなら、なぜ何ももらっていなかったかのように、自分の努力で獲得したかのような顔をして高ぶっているのだ、と言うのです。こうした高ぶりがガラテヤの信徒たちにも見られたのでしょう。

  自分たちはイエス・キリストによる救いも知っていて、それゆえ社会でも弁えて生きることができるかのように思っている。主張していることは間違ってはいないけれど、何か本来の福音とはちょっと違う。それをどう分からせられるのか。

  パウロはこう言いたかったのです。「私が、身を低くしてあなたがたに福音を伝えたのだから、今度は私がしたように、あなたがたが私のように考えて生きて欲しい。」伝道は、言葉だけではなく、その人の生き方が問われます。本当にキリストによって自由にされた人だけが、他の人を自由にすることができるのです。福音と言いながら、結局は人に掟を守らせるぐらいのことしか教えられないなら、それを聞かされた子供たち、友人、求道者には、キリスト教って、何て面倒臭い宗教だろう、としか感じられないでしょう。

  パウロは、直接会って語り合えれば良いのに、と書きます。正直に、わたしは迷っている、とまで言います。パウロにとっての一番願いは、ガラテヤの信徒たちが、初めて福音を聞いたあの時のような、素直さを取り戻して欲しいということです。パウロには、預言者たちが、再三、頑ななイスラエルに向けて語った言葉も思い浮かんだでしょう。ガラテヤの信徒たちに願ったのも、それと同じ、いつくしみ深い神の元に帰って欲しいということだったのです。

  預言者イザヤは、こう書いています。 思い起こせ、ヤコブよ イスラエルよ、あなたはわたしの僕。 わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。 イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 わたしはあなたの背きを雲のように 罪を霧のように吹き払った。 わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。イザヤ書44章21~22節  立派でなくていいのです。ただ、幼子のような信仰であって欲しい。それが、何の打算もなく信じた時の幸せを取り戻す秘訣なのです。

bottom of page