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2023年7月2日 主日礼拝説教(要約)


   説 教  約束による子 

               吉平敏行牧師


   聖 書  創世記 21章1~10節

        ガラテヤの信徒への手紙 4章28~31節

 長きにわたり、抑圧され、我慢を強いられ、また不当に扱われ、尊厳を傷つけられてきた者、全く気にも留められず、無視され続けてきた者。そうした過去を持つ人が、神を信じて生きてきたゆえに、後に誇りを取り戻すためにはどうしたら良いのか。

  聖書は、弱者に対する神の配慮を数えられないほど記しています。中でも「子供を産めない女性」について、神は格別な配慮をしておられます。

  アブラハムの妻サラがその代表と言えるでしょう。聖書は、不妊の女性が子を宿すことになった奇跡をとおして、神による大逆転となる希望を伝えます。

  それがアブラハムとサラに生まれるイサクという名の「言葉遊び」を通して記されています。個人名でありながら、その名に様々な意味があり、普遍的な意味を持つ名として扱われています。

  イサクは、神が付けるよう命た名前です。ヘブライ語でイッ・ツアーク、動詞「笑う」(ツアーク)から来ています。しかし、9節では、イシュマエルがイサクを「からかった」と書く、「からかう」もツアークです。自分で笑えば笑いですが、人を笑えばからかいになります。

  「笑い」も多様で、イサクを生んだ後のサラの笑いは、これまでの抑圧、蔑み、それら一切を払拭するかのような爽やかな笑いでした。約束が実現したことへの神への感謝、喜びとして書かれています。 しかし「笑い」には冷笑もあります。神から「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなた男の子を与えよう」と言われた時、アブラハムはひれ伏し、ひそかに「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」と笑いました。また、サラも、アブラハムを訪ねた3人の神の使いの一人が「来年の今ごろ、・・・あなたの妻のサラに男の子が生まれている」と言った言葉を天幕の後ろで聞いて、ひそかに笑います。これは冷笑です。

  冷笑とは、「いくら、神様でも、そんなことはありえないでしょう」といった、冷めた見方、さらに、自分の思いが正しい、とする尊大さの現れです。神への侮辱と言っても良いでしょう。しかし、神の言葉(約束)は必ず実現します。「イサク」の名前をめぐって、神のご計画が、一つ一つ明らかにされていくのです。

  しかし、その道のりはあまりに長いものでした。アブラハムは、神のみ声を聞いて旅に出ました。そこに連れ添う妻のサラの気持ちはどうだったでしょう。カナンに入った後の「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)の「あなたの子孫」という言葉に対し、アブラハムは妻サラのことを考えていません。アブラハムはサラが不妊であることを知っていたはずですから「あなたの子孫に」と言われたら、「わたしの妻は不妊ですが、どうしてそのようなことがあるのでしょうか?」と尋ねても良かったのです。その点で、御使から、あなたは身ごもって男の子を産むと聞いた時、「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(ルカ1:34)というマリアの質問は適切です。アブラハムにサラが妻として意識されていなかったことは、彼らが飢饉のためにエジプトに下っていった時に明らかになります。アブラハムは、サラに「エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11~13)と言うのです。何と身勝手な言葉でしょう。その後、サラはファラオに召し入れられ、アブラハムは彼女の兄ということで、羊や牛、ろば、奴隷など財産までいただきます。ところが、神はこのサラのことで、宮廷の人々を病にしたため、ファラオはアブラハムを呼び出して叱りますが、それでも財産は没収されることもなく、逃してもらいます。その後、聖書は「アブラムは、妻と共に」と書いています。

  やがて、再び「あなたの受ける報いは非常に大きい」との声を聞きます。しかし、アブラハムがその「報い」を自分の家の僕のことと思っていると「その者があなたの後を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が後を継ぐ」と言われます(15:4)。

  いつまでたっても子供が与えられないサラは、とうとうアブラハムに「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16:2) と言い出します。アブラハムはサラの願いを聞き入れますが、女奴隷ハガルが「自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」のです(16:4)。これにはサラが怒ります。その結果、ハガルがサラの元から逃げ出すという展開になります。

  アブラハムは「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と聞いた時、彼は自分と神との関係でしか考えていません。アブラハムは「あなたから生まれる者」が、サラとの間に生まれる息子であるとは考えなかったのです。その後で主がアブラハムに「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする」(17:15~16)と言われた「彼女によってあなたに男の子を与えよう」との言葉に、初めてそれが、サラとの間に生まれる息子として理解したのです。

  その言葉を聞いた後、アブラハムは「ひれ伏して、しかし、笑った」のです。この笑いは何か。アブラハムは、初めから自分たち夫婦の子供とは考えられなかった。そこで、家の僕や、サラの女奴隷のハガルも出てきた。妻サラが抱えている、どうにもならない問題を考えなかった結果が、女奴隷ハガルとの子イシュマエルの誕生となったのです。それは、サラも同じで、来年の今頃、自分に男の子が生まれると聞いて、密かに笑うのです。

  神様が約束し、実現しようとされる祝福について聞くと、あまりに無謀な事のように思える。自分が期待する範囲内で、良いことが起こってくれれば良い、と思っている。だから、神のご計画を聞いても、実現するはずがないと思って、笑ってしまう。この冷笑が、神の言葉を信じない人間の罪です。

  実は、アブラハムとサラは、ゲラルに滞在中、かつてエジプトのファラオに犯してしまった失敗をまたしてしまう。アブラハムは再びサラを「わたしの妹」と偽り、その時はサラまでも「あの人はわたしの兄です」と言っています。神はこのような二人をも、神のご計画のゆえに守り、祝福してくださるのです。

  ペトロは「サラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3:6)と書き、夫たちには「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」(1ペトロ3:7)と書いています。そういう意味で神の祝福は「命の恵みを共に受け継ぐ」ことであると分かります。

  こうした様々な事柄を経て、「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった」 (21:1~2)と書くのです。「約束された」は、ヘブル語で「言葉」(ダバール)という意味を持ちます。パウロは、ローマ9:9で「約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした」と書いています。

  サラが7節で「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」と言っています。夫に従いながら忍耐してきたサラ。アブラハムに抑圧されていたとは言わないけれど、夫に物が言える時代ではない。しかし、そのために彼女がどれほどの苦痛を味わってきたことかは、想像できる。それが、ここで逆転したのです。

  そう考えると、「年老いた夫のために」の訳が奇妙です。原文は「年をとった彼に子を産んだ」という事実です。息子イサクを抱きながら、かつてを振り返り、「イサク、イサクよ」と名を呼びながら乳を含ませている。サラは、心から喜び、感謝しているのです。

  これほどのところを通ったのですから、女奴隷の子イシュマエルがイサクを「からかう」ことに我慢がならないとしても仕方がないでしょう。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」(10)  この言葉をパウロはどう読むか。来週、学びます。

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