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2023年7月9日 主日礼拝説教(要約)

 

  説 教  自由の道を歩む 

               吉平敏行牧師


   聖 書  創世記 21章9~13節

        ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~5章1節

 不妊であったアブラハムの妻サラが、主の約束の言葉どおり息子を生む。その息子イサクの乳離れの日にアブラハムは盛大な祝宴を催します。「乳離れ」は2~3歳ころ。しかし、「盛大な祝宴」が意味するのは、イサクが正式にアブラハムの相続人となるということでした。その、まさに喜びの後に起こったのが、イシュマエルとの出来事でした。

  サラの女奴隷の子イシュマエルが息子イサクをからかっていたのです。年齢差からして、イサクを馬鹿にして笑っていた(ツァ・アーク)のでしょう。サラはそれを見逃しません。14、5年ほど前、自分の奴隷が自分にとったのと同じ横柄な態度を見たのです。あの時、サラはアブラハムに「わたしが、こんな不当な目に遭っているのは、あなたのせいだ」と怒りました。

  しかし、今度は、自分が生んだ息子に奴隷が夫に生んだ子供が同じようにしている。自分ばかりかイサクに対しても繰り返される。これは一体、何か。

  サラとハガルの確執は、息子イサクと奴隷の子イシュマエルとの問題として再燃したのです。まさに、家督を継ぐのは誰か、という相続の問題であり、決してゆるがせにできないことでした。今回ばかりはサラも我慢しきれなくなってアブラハムに訴えます。

  「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」これをサラのわがまま、子供同士の問題、などと、人付き合いの問題にしてはなりません。それはサラの「あの女とあの子」(原意は「奴隷の女とその子」)と「わたしの子イサク」の問題です。サラが「わたしは子を産みました。年老いた夫によって」という言葉のように、イサクを生んだのは「わたし、サラ」なのです。こうした関係についての深刻な問題について、大抵、男たちの反応は鈍いのです。

  聖書は、「このことはアブラハムを非常に苦しめた」と書いています。その理由は、「その子も自分の子であったからである」という、極めて人間的なものでした。

  果たして、サラの訴えはわがままなのか? サラにとって、イサクは、神の約束によって与えられた、奇跡の子です。そして、それは家督、アブラハムの相続に関わる問題でした。アブラハムの苦しみに対して、神はアブラハムに「すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる」と 言われて、納得します。

  パウロは、そのサラとハガルの問題をガラテヤの教会の問題に当てはめたのです。4:30の創世記からの引用が、ガラテヤの問題にどう当てはまるのか。アブラハムの苦しみをガラテヤの教会に見、サラの言葉に通じる明確な決断を促すことができるのか。

  パウロは30節で「聖書はなんと書いてありますか」と、と問います。それは21節の「律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか」に通じます。あなたがたは、しばしば律法に訴えるが、律法そのものは何と教えているのか、律法そのものに聞きなさい、と言うのです。

  22~23節は、創世記のそのものですから解説はいらないでしょう。しかし、パウロは、ハガルとサラの問題ではなく、「女奴隷」と「自由な身の女」に置き換えています。つまり「奴隷」と「自由」の問題を論じていくのです。30節で「自由な身の女から生まれた子」と書いている箇所は、創世記では「わたしの子イサク」というサラの言葉であり、パウロはそうした点を比喩として解釈し、ガラテヤの教会の問題に適用させようとしています。

  パウロがガラテヤの信徒たちに気づかせたいのは、福音の本筋を歩む者は誰なのか、ということです。異邦人クリスチャンが、律法を守るような方向に進んでいるが、それは奴隷の道を進んでいくことになるというのです。パウロは4:7で、すでに「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と書いています。にもかかわらず、どうして再び奴隷の子になろうとするのか、とパウロの訴えます。パウロはここまでをまとめて、31節で「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」と書くのです。

  ガラテヤの教会に福音とは似て非なる教えが入ってきて、信徒たちは混乱し始めました。割礼を受け、律法を守らなければ救われないとする教えが、彼らを恵みから引き離し、パウロとの関係を悪くさせ、教会は混乱し、悩みの中に陥っていたのです。そして、パウロの福音に生きる人々を、あざ笑うような信者が起こってきていたのです。これこそサラとハガルの問題、イサクとイシュマエルに通じます。パウロは、教会で掟的な人を追い出せと言っているのではありません。パウロは「霊によって生まれた者」と「肉によって生まれた者」とを正しく識別するようにと教えているのです。

  パウロは24節から、サラとハガルの物語を比喩的に見立て、ガラテヤの教会の現場に当てはめていきます。

  この二人の女性は二つの契約を示していると言います。アブラハムから生まれる子でも、奴隷となるのは、ハガルの方で、ハガルはエジプト人でした。ファラオに嘘をついたときに、もらった財産の中に「男女の奴隷」(12:16)が入っていましたから、その中の一人でしょう。当時のユダヤ人たちは、ハガル・・・アラビア・・・シナイ山を繋いで考えていたようで、そのハガルからイシュマエルが生まれたとします。パウロも、復活の主に出会った後、しばらく一人退いていた場所がアラビア(1:17)でした。そこはユダヤ人にとっては律法が与えられたシナイ山がある聖地でもあります。パウロは、そのシナイ山――ユダヤ人にとっての聖地――が、当時のエルサレムの教会に当たると遠回しに言っているのです。なぜなら、エルサレムの教会には、エルサレムを讃えるユダヤ人キリスト者、割礼を受けた異邦人キリスト者が今もなおいるからです。パウロにすれば、エルサレムにいる律法主義者たちは、イサクの流れを組む人々ではなく、律法の奴隷の下にいるハガルの系列に属する人々でした。

  しかし、パウロはエルサレムには、地上のエルサレムと天のエルサレムがあり、福音に生きる信仰者が考えるエルサレムは天にあるとします。そこでは、律法から解放された自由があり、その天から生まれた者たち、天のエルサレムを母体として生まれた者たちが、キリスト者である。そういう意味で天のエルサレムは、パウロの福音によって、信仰によって霊的に生まれた者たちの母となる。パウロは、その根拠をイザヤ書54章1節から引用し、「子を産まない不妊の女」をサラに当てはめ、「産みの苦しみを知らない女」を、天のエルサレムに当てはめています。天のエルサレムは、あくまでも霊によって子を産むので、産みの苦しみを経ません。実際に多くのキリスト者が生み出されてきたのです。 

 そこまで来ますと、サラから産まれたイサク、天のエルサレムを母として霊によって産まれたキリスト者、そして今ここにいる私たちが繋がります。アブラハムの嫡子イサクと私たちキリスト者に共通するのは、神の約束の言葉によって産まれた、ということです。

  パウロは最後に「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」とまとめます。

  私たちは、イエス・キリストを信じて自由にされています。その自由が、どこに由来する自由であるのかを確認しなければなりません。私たちの信仰の出自が、どこのエルサレムからなのか。自由の母なる天のエルサレムから生まれた者なのか。奴隷の家に生まれたまま、罪の世界に留まっていては自由はありません。イエスを通して神の子とされた者たちに、自由は保たれています。

  主はこう言われました。 罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。 (ヨハネ8:34~36)  私たちを本当に自由にするのはイエス・キリストだけなのです。

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