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2023年7月16日 ファミリー礼拝説教(要約) 


  説 教  祈りは聞かれる

                吉平敏行牧師


   聖 書:マルコによる福音書 11章12〜14節                      20〜25節

 数ある福音書の記事で、この箇所ほど驚かされる出来事はありません。特にイエス様がどのような方であるかを知る者にとっては、面食らうような記事であります。

  しかも、「いちじくの季節ではなかった」とあります。これでは、タチの悪いクレーマーのようです。さらに、翌日には、そのイチジクの木が根元から枯れていた、というのです。弟子たちは、それを見て驚きます。その直後、イエス様は「神を信じなさい」と言われますが、「ちょっと、待ってください」とためらいます。

  こうした感覚は、私たちの側の誤解から来ています。一つは、私たちが思い描くイエス様のイメージに合わないということ。もう一つは、イエス様と言えど、そんな乱暴な言葉どおりになっては困るという感覚です。もし、「明日の朝、このイチジクの実がたわわになれ」と命じて、そうなっていたという奇跡なら受け入れられるでしょう。私たちの戸惑いのは、イエス様を、あまりに人間のレベルで考えてしまっているからでしょう。

  ペトロは、前の日に、イエス様が「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた言葉を覚えていました。その、翌朝早くには、そのイチジクが根元から枯れていたのに驚いたのです。「先生、ご覧ください。あなたが呪われたイチジクの木が、枯れています。」これは、どんな思いだったでしょう。

  すると、イエス様が「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」と仰る。そうなると考えて良いでしょう。ですから、ここは、私たちが神を信じるということをどう考えているのか、と問われていることになります。「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば」と言われると、とてもそこまでは信じきれない、という思いになります。「この山」とはオリーブ山のことで、そこから死海も見えたそうですから、「この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』」と、言われて、彼らは自分の足場であるオリーブ山が、遥か向こうの死海に動くような天変地異を想像したでしょう。

  22節の「神を信じなさい」の「神を信じる」とは、どういうことなのかが問われてきます。私たちは、祈りますが、そうなると本当に信じて祈っているのか、それは既にいただいたと信じられるものなか、と問われてきます。こういう言葉で、改めて自分の祈りの確信のなさ、信じることの難しさを思います。

  このことが起こった背景を考えます。マルコによる福音書10章32節で「一行がエルサレムに登って行く途中」とあり、11章1節に「一行がエルサレムに近づいて」とあります。そして、オリーブ山のふもとの町に差し掛かって、子ロバを借りて、その背に乗ってエルサレムに入ろうとされます。弟子が子ロバの背に自分の服を掛け、人々は、葉のついた枝を切って道に敷いて、「ホサナ、ホサナ」と叫ぶ、歓声の中にエルサレムに迎え入れられ、神殿の境内にも入られます。そして11章11節で「もはや夕方になったので」とベタニアに戻られる。

  12節の「翌日」は、ベタニアを出るところから始まります。そして、このイチジクの話があり、一行は15節でエルサレムに到着し、神殿に入ると、いわゆる宮清めがなされます。そして19節で再び「夕方になると」、もう一度、都の外に出ます。そして20節の「翌朝早く」があります。そして、27節で再びエルサレムに入ると、祭司長、律法学者、長老たちとの議論が始まります。こうした背景を見ますと、イエス様はエルサレムに出たり入ったりしておられる中で、イチジクの木が枯れたという話なのです。 

 旧約聖書では、イチジクやオリーブ、ぶどうといったパレスチナの農産物が、エルサレムの比喩として使われます。豊かな収穫はエルサレムの繁栄を示しますし、甘いぶどうを願って育てたにもかかわらず「酸いぶどう」になったという、神が残念がるという話もあります。

  そうした比喩を考えると、「葉の茂ったいちじくの木」は、エルサレムの繁栄を思わせます。しかし、実際にエルサレムに近づかれと、エルサレムの町は「葉のほかは何もない」町としてイエス様の目に映ったでしょう。北部のガリラヤからきた弟子たちにしてみれば、エルサレムの神殿は目を見張るものでした。弟子の一人が神殿を指して、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と讃えると、イエス様は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコ13:1~2)と言われます。これはエルサレム崩壊の予告です。

  人々が「ホサナ、ホサナ」と歓声で迎えたイエス様ですが、彼らの心にメシアへの理解や期待があったのか。それは、神殿の境内でも同じでした。イエス様は、神殿の役割が果たされていないことに腹を立て、「わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。 宗教としての形は保っていても、人々から宗教心がなくなっている。絢爛豪華な神殿で、恭しく礼拝を装っても、イエス様の目には、神への信仰が失せてしまった形骸化した宗教の町、それがエルサレムでした。

  イエス様は、エルサレムのために嘆かれます。「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタイ23:38~39)  イエス様がご覧になられたイチジクの木には、将来実となるはずの、小さな実一つもなかったのです。翌日、根元からすっかり枯れてしまったイチジクの木を見たペトロは、驚き、動揺したでしょう。それでも、イエス様は「神を信じなさい」と言われたのです。

  この「神を信じなさい」の原意は、「神の信仰を持ちなさい」であり、「本来の神の信仰に立て」ということです。

  群衆に流され、浮き足立つような熱狂に乗らず、本来の信仰の道を逸脱するようなことをせず、イスラエルの神を信ぜよと、命じるのです。詩編46編にこうあります。 「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも・・・」  私たちの神には、おできになる。「少しも疑わず、自分の言う通りになると信じる」とは、自分が祈って、自分の祈りの力でなんとかなる、と言っているのではありません。

  では、私たちは祈りをどう考えたら良いのでしょう。「山に向かって、立ち上がって、海に飛び込め」という、とんでもない事柄 の後に、赦しのことが書かれています。誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。

  山を動かすほどの信仰と人を赦す、私たちの過ちが赦されるということが並行して書かれています。私たちは、病気の癒しやとてつもなく大きな奇跡が難しいと思うかもしれませんが、罪が赦されることの方が、はるかに難しいことを知っています。神が御子イエスをこの世に送り、御子を死に渡さねば罪の赦しがなかったこと、イエス・キリストの復活、死者の復活は、山が動いて海に入ることよりも、困難なことであった、ということです。

  イエス様は、私たちが祈り求めるものすべてについて、「神の信仰に立て」と言われます。祈り求めることの一切を、この神がしてくださると信じるように、とすれば、既に手に入れたと信じるようにと勧めるのです。

  このイチジクの木から学ぶことは何でしょう。上辺を装うはなやか熱狂主義は危ういのです。宗教の形を守ろうとする形式主義は、信仰の命を絶ち、宗教を使って人の悪をはびこらせる温床になりかねません。今こそ、私たちは、神の信仰に立つことに目覚めねばなりません。

  13章28節で、イエス様はこう仰います。 いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

  それほどに、私たちが、イエス・キリストの言葉に立っているかどうかが問われています。

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