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2023年7月23日 主日礼拝説教(要約) 


  説教  自由であるために

                 吉平敏行牧師 


  聖書  レビ記 19章17~18節

       ガラテヤの信徒への手紙 5章2~15節

 私たちがイエス・キリストを信じて与えられた大きな賜物が自由です。しかし、その「自由」と一般に言われる「自由」とはどこが違うのでしょう。

  パウロは、5章1節で「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」、13節でも「兄妹たち、あなたがたは、自由を得るために召し出された」と「自由」を繰り返します。この自由は、自由の女から、つまり信仰によって「天のエルサレムを母とする」者たちに与えられた天来の自由です。その自由は、イエス様が「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハネ8:34~36)という意味での「本当の自由」のはずです。

  パウロは、これまでアブラハムの子孫であるかどうかを論じましたが、それは、主イエスの「真理はあなたたちを自由にする」と言った言葉に、ユダヤ人たちが「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」(ヨハネ8:32~33)と反論したように、パウロに反対するユダヤ主義者たちが、アブラハムの子孫となるための割礼が必要とする議論を吹きかけた背景があると思われます。しかし、パウロは、律法はそういう甘い考え方を許さない、割礼を受けるなら律法を徹底して守る義務があるというのです。

  しかし、もう一方で、律法の中心となる精神が分かっていれば、律法全体を守ることになる、というのがパウロの考えです。共同体における信仰生活に、何の規準・規律もないということはありません。しかし、そこで、「自由」、「枠の中に生きる自由」という意味を考えねばなりません。

  パウロは3節で「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです」と言い、14節では「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と書いています。両方ともに、「律法全体」が関係しています。どちらが律法を全うすることができるのか。 

 もし、律法について間違った考え方をしていると、「いただいた恵み」を失うことになり(4節)、最悪の場合、「互いにかみ合い、共食いしているのなら」教会を滅ぼしてしまうことも起こり得る(15節)と警告します。

  従って、一般に主張される自由と神の恵みとして与えられた自由は、根本的に違います。ガラテヤの教会には、間違った律法の教えが入り込んできたため、初めに与えられた神の恵みは忘れられ、律法を守らねば救われない、とする福音ならぬ福音が広がり、人々の関係が悪化していったのです。

  パウロが初めてガラテヤ地方に入り、福音を語り、それを聞いてイエス・キリストを信じる人々が起こされた。ガラテヤの信徒たちの目に十字架に架けられたイエス・キリストがはっきり映し出され、聖霊の経験も経た。そこに、互いへの思いやりが生まれ、その思いを実行していました。7節の「あなたがたは、よく走っていました」は、パウロにとっての喜びでした。しかし、そういう動きが止まってしまった。パウロは「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのか」(7節)と憤慨するのです。

  パウロは、そうした教えが「わずかなパン種」として共同体に悪い影響を拡大させたと考えます。そうした「パン種」が今日、私たちが生活する環境、情報で吟味する必要があるでしょう。心地よい、聞こえの良いキャッチフレーズも吟味する必要があります。

  それに対し、パウロは「十字架のつまずき」を挙げます。パウロが常に考えていたのは「十字架につけられたキリスト」(コリント一2:2)です。十字架こそ、罪人を罪から救う神の力ですが、同時に宣教する場合の最大の難物です。十字架という言葉を聞くと、ユダヤ人も異邦人もまともに聞こうとしません。「十字架につけられたキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1:23)だったからです。十字架以外に救いがないのに、十字架が救いの妨げになってしまう。今日の伝道もまた然りです。

  もしパウロが人受けするために、そのつまずきを無くして、割礼を容認するような方針に転ずれば、ユダヤ人から迫害を受けることはなかったでしょう。人を惹きつけたいなら「十字架のつまずき」をなくせば良いのです。それでは、ユダヤ教の伝道になってしまいます。しかし、人が罪から救われず、本当の自由は手に入れられません。

  ガラテヤの教会では、「割礼」を受けるまで律法を守らなければ救いは完成しない、とする考え方が広がっていました。パウロは「そういう人は律法全体を行う義務がある」と言います。しかし、神はそういう義を求めてはおられませんし、律法を行うことはユダヤ人にも大きな重荷となっており、神に立ち返る異邦人にそうした律法の重荷を負わせない、ということをエルサレムの会議で確認したのです。

  パウロは、それほど割礼を主張するなら、「いっそのこと自ら去勢してしまえば良い」と言うのです。ここにパウロの憤りが表れています。

  そうした中で、注目するのは5節です。「なぜなら、わたしたちは、聖霊のゆえに、信仰によって義とされる望みを抱いているからです。」(私訳)救いとは、「信仰によって義とされる望み」であり、それが聖霊によって与えられているということです。気持ちに左右されることなく、約束のみ言葉に留まり、信仰による救いを喜ぶ者たちの交わりに留まることで、磁場に置かれた釘が磁石になるように、一緒に神に感謝できるようになります。

  私たちは、イエス・キリストを信じた時に救われたという喜びを忘れてしまっているのかもしれません。いつの間にか信仰が行いに転じ、義務感が起こり、イエス・キリストとは「縁もゆかりもない者」担ってしまっているのかもしれません。

  キリストにある自由であり続けるためには、聖書に基づいて考え方を軌道修正する必要があります。特に律法について、あるいは規則や掟について自分勝手に考えていますと、いつの間にか、その罠に捕らえられ、本来の自由から外れてしまう。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」のとある、「肉に罪を犯させる機会」に注意せねばなりません。自由には罪の温床になりうる危険性も含まれているのです。

  パウロは、人間の体である「肉」には罪の力が働いていることを知っています。神から離れ、神を知ることのない者が、神の法を守りきれないのは当然です。普通は意識されない罪(原罪)が、一旦、法や戒めを破ったと意識し始めた瞬間に、何者かに裁かれると考えるようになる。自分が正しい思うことですら押し通してしまうことが「肉に罪を犯させる機会」になると、パウロは指摘します。肉の欲求は、悪い欲望のことだけでなく、正しいと思えることに伴う熱心、情熱も含まれるのです。

  その肉の力が働くような機会を与えず、むしろ自由にされた喜びを「愛によって互いに仕える」ことに用いなさい、と勧めるのです。自由にされた喜びを、隣人を愛することに向けることで、律法は全うされるというのです。

  3節と14節で使われる「律法全体」の「全体」という原語は違います。3節は、割礼を受けようとまで考えるなら、律法全て(whole)を行なうことが義務となる、ということです。律法を一つも漏らすことなく、ことごとく行うことが求められてくる。しかし、14節の「律法全体」の「全体」は、隣人を自分のように愛することで、律法に書かれた全項目(all)が満たされることになる。隣人愛が律法の要求を十分に満たすことになるというのです。パウロが6:2で記す「キリストの律法」も、互いに重荷を負い合うことが「キリストの律法」を全うすることになると勧めることに通じます。

  イエス・キリストから与えられた自由であれば、神の子としての自由に生きることができます。大切なのは、神の恵みに留まることです。その自由に立ち続ける時、生き生きとした生き方ができるでしょう。

  イエス・キリストを信じて与えられた自由がいかに素晴らしいものであるかを知り、自分のやりたいことだけを主張する、肉に罪を犯させる機会となる、誤った「自由」の主張には警戒が必要です。

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