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2023年8月6日 主日礼拝説教(要約) 


  説 教  主の霊に導かれ 

               吉平敏行牧師 


  聖 書:出エジプト記 13章17〜22節 

      ガラテヤの信徒への手紙 5章16〜26節

 この手紙は伝道を意図したものではなく、イエス・キリストを信じた異邦人キリスト者に宛てたものであり、彼らの信仰と教会が危機に瀕していることを教え、それを回避するための方法を教えている手紙です。

  ガラテヤの教会は、「互いにかみ合い、共食いしている」(15)状態にあり、パウロは「互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」(26)と勧めています。 

 ガラテヤの教会には、福音を聞き、イエス・キリストを信じてから、互いを思いやる暖かな空気がありました。ところが、そこに信仰を全うさせるために律法を守るようにと教える者が入って来て、交わりに亀裂が生じるようになってきました。パウロは、キリストの福音を捻じ曲げようとする者たちに憤り、信徒を目覚めさせようとしていました。

  この問題の根本に、キリストにあって自由にされた、その自由をどう用いるか、ということがありました。それは、今日、近代化を推し進めてきた自由主義の、まさにその「自由」が問われていることに通じる問題があります。

  パウロは、自由が「肉に罪を犯させる機会」になると指摘します。自由が「罪からの解放」というキリストの贖罪から離れ、個人の自由、その自由を獲得するための主張となり、人と人、国と国とがぶつかり合うまでに広がっています。ですから、私たちは、まずパウロの警告に耳を傾け、神の恵みから始まった信仰に留まり、本当に自由にされることの意味を学ばねばなりません。

  パウロは、そのために「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25)と勧めますが、それは一言で「霊の導きに従って歩みなさい」(16)という命令になります。

  そこで考えねばならないのが「霊の導き」であり、それに対抗する「肉」の問題です。「霊」とは何か。「肉」とは何か、ということです。

  「肉」とは、第一義的には私たちの肉体を指します。しかし、その体は様々な面で弱さを持っています。それは、キリスト者であろうと非キリスト者であろうと変わりありません。違いは、キリスト者はイエス・キリストを信じて洗礼を受け、信仰の上に日々の生活を考え、日々を送っているということになります。そういう意味で、パウロが記す「霊」を自覚し得るのはキリスト者です。

  従って、パウロが16節以降で述べる肉と霊の対立は、キリスト者の内部に起こる対立であると分かります。イエス・キリストを信じて救われたがゆえに起こる問題と言えます。パウロですら、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)と言い、 “霊”の初穂をいただいているわたしたちも、・・・体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます ローマの信徒への手紙8章23節  と「うめき」を記しています。

  「肉と霊」との対立は、一般に言われる良心の葛藤ではありません。パウロは、信仰生活に「理性」を働かせるべきことを勧めますし、パウロ自身も状況に応じて自分の考えを述べていますが、「わたしも神の霊を受けていると考えます」(コリント一7:40)と、理性や良心に照らして神の霊がどう判断するのか慎重に吟味しています。それぞれに考えながら、そこに神の霊という、もう一人の存在と共に生きています。それは、祈りの中であったり、聖書を読んだり、親しい人と語り合ったりする中ででも起こり得ます。ヤコブが「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(ヤコブ3:17)と書くような、判断の吟味を必要とします。

  パウロが「霊」と呼ぶのは、イエス・キリストを信じた時に与えられた神の霊であり、聖霊と言っても、御子の霊と呼んでも良いでしょう。私たちを信仰によって世に産み出したのは、天のエルサレムであり、パウロはそれを「自由の女」と呼びました。

  そうした霊の領域では、「肉」は、単なる肉体、体という意味から、罪を持つ体という理解になります。霊的に死んでいた私たちに、イエス様が「生きよ」と声を掛け、息を吹き返したのです。ローマ書で言うとおり「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(8:14)。

  その肉と霊とのせめぎ合いがキリスト者の中に起こります。パウロは「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができない」と書いています。せっかく得た自由も、「自分のしたいと思うことができない」では、不自由です。それが肉と霊の対立の結果です。

  パウロは、その解決策として、自由を「愛によって互いに仕え合う」ようにと勧めます。自分のためだけの自由だと、自分も不自由になり、さらに自由を求める者同士の主張が起こり、挑み合ったり、ねたみ合ったりすることになるというのです。ですから、教会内の対立の問題も、キリスト者一人一人の中にある肉と霊の対立が始まりであるとの指摘は重要です。

  私たちは、霊に導かれて生きたいと思います。しかし、ここを単純に「肉の業」と「霊の結ぶ実」と対比して、聖霊を求めると言う考え方では、問題は解決しません。

  「肉に罪を犯させる機会」は、肉体の弱さの故に起こってくるものです。ですから、肉に罪を犯させる律法がなければ、罪を犯すことも起こらないというのがパウロの考え方です。そこで、18節で「霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません」、23節で「これらを禁じる律法はありません」(私訳)と、キリスト者の生き方に律法が関わらないことを指摘しています。霊に導かれて生きる限り、肉体は関係しないので、律法は働きません。しかし、人は体なしに生きられないので、その罪ある体に、絶えず律法やこの世の規則が働きかけ、罪を犯させることになります。もし、律法が影響を及ぼさなければ、罪も犯さないし、不自由になることもありません。

 しかし、もし19節以降の「肉の業」を実行したら、それはキリスト者であっても罪を犯すことになります。「姦淫、わいせつ、好色」は性的な欲求であり、「偶像礼拝、魔術」は世にある諸霊との密室の関わり、「敵意、争い、そねみ、怒り」は正義感に燃え、感情が抑えきれないことから起こります。「利己心、不和、仲間争い、ねたみ」は、利害に関わる金銭欲、名誉欲とも言えるでしょう。「泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」は羽目を外した遊興でしょう。これらは、異教社会で起こっている問題であり、今日私たちが耳にするニュースでもあります。

  そこで、パウロは自由「隣人を自分のように愛する」ために用いるようにと勧めています。22節以降で、霊の結ぶ実について語るのは、その愛を実践するためです。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」は、イエス様ご自身であり、聖霊によって私たちに与えられる性質でもあります。

  これらの人の人柄を示す言葉は、お葬式やお祝い事で、ある人についての感想を示す言葉で聞くことがあります。「寛容な方でした」とか「本当に誠実な方でした」というような言い方です。結局、霊が結ぶ実というのは、私たちが何かを為す以上に、その人の人柄を指すのである、と思ったのです。それが聖霊の実として私たちに結実していくことを願います。

  それを可能にするのが24節です。イエス・キリストを信じた者たちは、体にある欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのだと説明されます。パウロは割礼を推し進める人たちに「いっそのこと自ら去勢してしまえば良い」と書き、キリスト者は自分の欲そのものを十字架につけてしまった者だと言い、パウロは「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている」(6:17)と言っています。人の体について、霊的な比喩として説明しています。イエス・キリストを信じた時に、そういう自覚はないかもしれませんが、イエス・キリストを信じたということは、一切の人間的な欲を自分から十字架につけることを意味していた、ということです。

  ジョン・ストットは、この表現を「悔い改めの、すなわち、利己主義と罪の古い生活に背を向け、それを最後的にまた全面的に放棄することについての、パウロの生き生きした描写である」(ガラテヤ人の手紙講解p.278)と解説していました。  かつては、何もかも捨て置いてイエスに従った弟子たちのように、今、私たちは、聖霊に従って生きる決心をする必要があります。

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