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2023年8月13日 Home Coming Day説教(要約)


    説教:みんな、聖書に書いてある 

                   吉平敏行牧師


    聖書: ルカによる福音書 16章19~31節

 この話は大きく三部からなっています。第1部は、生前のラザロと金持ち(19~22節)。第2部は、陰府で苦しみ、アブラハムに嘆願する金持ち(23~30節)。そして、結論です(31節)。

  金持ちは、豪邸に住み、召使いも多数抱えていたでしょう。上等な衣類を着て、毎日優雅に遊び暮らしていました。盛大なパーティーを開いては気前の良いところも見せていたでしょう。慈善事業もしていたでしょう。しかし、聖書では「金持ち」としてしか記されていません。  一方、その門前に、全身できものだらけの貧乏人のラザロがいました。金持ちの家から出る残飯で生活していました。残飯目当てに野良犬もやってきます。その野良犬がラザロのおできを舐めているという、誠にグロテスクな描写です。彼の名前など金持ちにはどうでも良かったのですが、彼の名はラザロと記されています。箴言は言います。「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた(箴言22章2節)。

  やがてラザロは死にました。使用人たちが遺体を共同墓地にでも葬ったのでしょう。金持ちも死にました。5人の兄弟たちが切り盛りする、盛大な葬儀でした。人々は、生前の業績を讃えたでしょう。墓では弔いの楽器が奏でられ、祭司が終祷します。「どうか、われらの父アブラハムと共に、安らかに眠り給え。アーメン。」

  そして場面は一転します。白い衣を着た天使がスッと現れ、ラザロの亡骸を運び去っていきました。一方、金持ちは、その暗い墓の中に横たわったまま、第一部は終わります。

  第二幕、舞台はオレンジ色に変わり、炎の中でもがき苦しむ金持ちが浮かび上がります。そして、舞台の奥に、肌がすっかりきれいになったラザロが、アブラハムのすぐそばに幸せそうに座っている。それを見た金持ちが叫びます。 父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。(24節)

  そこで、アブラハムは言います。 子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。 (25節)

  それが今、二人は死んで、ラザロはアブラハムの傍にいる。金持ちは陰府で苦しんでいる。アブラハムの「今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」との言葉に、生前の人生が定まっていたように、死んでからも定まっていると語られます。アブラハムと陰府との間には越えられない大きな淵があります。主イエスが「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」(マタイ8:11)と言われた、その宴会の席にラザロは着いている。金持ちは陰府で歯ぎしりしているという形です。

  そのとき、金持ちは5人の兄弟たちを思い出しました。彼らはまさか、兄が死んでからこんな目に会っているなどとは思わないでしょう。金持ちは訴えます。 父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください 。(27~28節)

  死後にこんな世界があると知っていたら、もっと神に喜ばれる生き方をすべきであった。自分は手遅れだが、まだ生きている兄弟たちには死後の裁きを伝えたい。ならば、ラザロを送ってもらおう。  ところが、アブラハムは お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。(29節) と言いいます。  金持ちは反論します。 いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。(30)  自分も、モーセと預言者は知っていた。しかし、本当に聖書に書かれたとおりだとは思ってもみなかった。だから、もし、死んだラザロが彼らのところに現れて あなた達の兄さんから、『神を恐れて、悔い改めなさい』と伝えてくれと言われた と言ってくれたら、彼らはこんな目に遭わなくて済むだろう、というのです。死人が復活するという、とんでもない奇跡でも起これば、今生きている人間も悔い改めるかも知れない。しかし、厳かな声が響きます。 もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。 (31節)

  イエス様は、16節で「律法と預言者は、ヨハネの時まで」であり、今は「神の国の福音」が伝えられていると、言っておられます。そして、今は「だれもが力ずくで神の国に入ろうとしている」というのです。洗礼者ヨハネは、人々に 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。 (ルカ3:8) と言いましたが、金持ちは、自分こそアブラハムの宴席に招かれ、その横に座らせていただけると考えていたのです。金持ちからしたらラザロなど入れるはずがない。ところがラザロがそこにいて、自分は陰府にいる。イエス様をあざ笑うファリサイ派の人々への痛烈な皮肉です。

  気になるのは18節の言葉です。なぜ、唐突にこんな言葉が入ったのか。律法のようですが、律法よりも厳しい文言です。律法では、離婚状を出せば、夫は妻を離縁できます。それを、イエス様は「離縁して他の女を妻にする者、あるいは離縁された女を妻にする者も姦通の罪になる」と厳しく戒められたのです。それについて、イエス様は「あなたがたの心が頑なだから」と言います。律法と預言者の時代は、神様が大目に見ていた面もある。しかし、「神の国の福音」は、死者の復活を告げる時代であり、律法により戒められる時代は終わった。復活が起こった限り、もう悔い改めない理由はない。それが「神の国の福音」です。

  旧約聖書の神は厳しく、新約聖書の神は優しいと考える方がおられます。しかし、山上の垂訓で明らかなように、イエス様の基準は律法より高いのです。「あなたがたはこう聞いてきた」「しかし、わたしはこういう」と言われる。最大の奇跡としてイエスが死者の中から復活されたのですから、全てはそこから神や信仰を考えていかねばなりません。

  そこで、アブラハムはこう言うのです。もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。(31節)

  この言い方には二つの仮定法が含まれています。一つは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、その言うことを聞き入れはしないだろう」という「もし」です。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」、当然の結果として「その言うことを聞き入れはしない」ということ。二つ目の仮定は、「たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」は、現実には起こりそうもない「死者の中から生き返る者があったとしても」、「モーセと預言者の言葉を聞き入れない」と言うのです。どれほどの奇跡が起こったとしても、彼らが神の言葉を聞こうとはしない、と言う心の頑さを示しています。

  私たちは、聖書から、神はイエスを死者の中から復活させた、という「神の国の福音」を聞いています。この金持ちのような悔いを残さないために、死者の中から復活されたイエス・キリストが、今の私たちに悔い改めて神の国の福音を受け入れなさい、と教えてくださっているのです。  金持ちが貧しくなれば救われるという話ではありません。今、貧しく苦しいけれど、死んでから幸せになれると聖書が教えているわけでもありません。ただ、今、貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々は、幸いであるとの約束を語っています。その大きか価値転換が、神の国の福音の知らせです。それはただイエス・キリストを信じた人々に与えられます。そして、「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」時代が来ています。

  今、私たちは、モーセよりも偉大な方、イエス・キリストを知っています。その方が、死者の中から復活して、私たちに、生きている間に神を恐れるようにと警告してくださっているのです。 「悔い改めて神の国を受け入れる」チャンスは、今、福音を聞くことのできる今しかない、ということです。

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