top of page

2023年8月27日 主日説教(要約) 


   聖書:重荷を分かち合う 

                吉平敏行牧師 


   聖書:民数記 11章10~17節

       ガラテヤ人への手紙 6章1~10節

 6章では、信仰を見失いかけた人々が、もう一度キリスト者としての交わりを取り戻すための助言が記されています。すでに肉と霊の関わり、働きについて語って来たパウロは、「霊に導かれて生きる」とはどういうことかを述べていきます。私たちは「霊」について、あまりに無頓着ではなかったでしょうか。

  信仰は、本来、人が生きるためのものです。私たち(赤ちゃんとして)の誕生から、躾け、教育、社会の一員として生きる基本と責任を身につけ、さらに多様な人間関係の中で練られ、個別の苦闘、奮闘があって生きていきます。信仰者の交わりがあれば、経験者から進むべき道筋を教えられ、助言や励ましを受け、信仰によって生きるという基本を身につけ、それが伝えられていきます。そうした、時間のかかる循環について、私たちは信仰という観点からもう一度吟味する必要があります。

  パウロは、「霊に導かれて生きているあなたがた」(1)と呼びかけます。それは、福音の恵みに生きる人たちであり、「肉と霊との対立」(5:17)といった葛藤を経て、ひたすら霊に導かれて生きようとしている人々です。信仰者の交わりを回復させるために、正しい福音に立っている人を基本に、周囲の人たちに働きかけて建て上げていこうとしています。しかし、何をもって「正しい福音」とするかです。 「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」と言われる罪は、何らかの過ちを指す言葉です。しかし、「法を破った」との罪意識に囚われている信者が、律法の罠に捕らえられ、悪循環に陥る可能性もあります。罪責感が、恐れとなってその後の判断や行動を狂わせるということがあります。それは、2章のペトロやバルナバのチグハグな行動で見ました。それゆえ、仲間が陥った過ちについては丁寧に扱われねばなりません

。  パウロは「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と勧めます。「柔和な心で」とは「柔和の霊」であり、「優しい気持ちで」とか「優しく」と言い換えても良いでしょう。 同時に、パウロは「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と注意を促します。どうしてこういう場面で、誘惑が起こり得るのか。そこに、過ちから生じる罪の意識は、単なる同情や慰めでは解法はなく、霊に関わる問題として扱われるということです。それを一般的な善悪・常識で対処するのではなく、霊の領域で対応する必要があります。そういう意味でも、多少の過ちがあったとしても、礼拝に続けて来て、健全な信仰者の交わりの中に身を置くことによって、解決が得られることもあるのです。

  霊によって導かれることは、正義や正論を語ることを意味しません。柔和の霊に導かれる、思いやりを優先させる、そういう姿勢が、過ちに陥った人を連れ戻すことに有効であると、教えます。 それを具体例が「互いに重荷を担う」ということです。それが「キリストの律法を全うすることになる」からです。5:14で 「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」という律法全体が、ここで「キリストの律法」と書かれます。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 (ヨハネ13:34) を新しい掟として定められました。パウロは、その愛の戒めを「キリストの律法」としたのです。文字で書かれた律法ではなく、霊により心に刻まれるのがキリストの律法です。

  パウロは、5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」とも書いています。2節の「重荷」は押し潰されるほどの重荷として、律法や罪に関わるものでしょう。それほどの重荷は、主イエスがすでに負ってくださったものとして、その福音を確認しあい、その人の負担を軽減させることができるでしょう。  一方、5節の「重荷」は、それぞれが負うべき重荷、その人が重荷と考える事柄と言えるでしょう。人には様々な重荷があることを教えています。 3節では、助言するにしても、自分は正しいところいる、という意識ではうまくいかないことを示しています。自分は特別であるかのように思い、人の過ちを正そうとしても、かえって重荷を重くすることになり、それは自分を欺いていることになる、という注意です。

  まずは自分に当てはめて考えれば、自分だって人に誇れるような者ではない、と分かってきます。誰にも陥りやすい過ちがあり、同時にその人自身にしか対処できない過ちがある。助ける者も助けられる者も、そういう弱さを担っていることを知ることは大切です。

  そういう観点から6節から9節まで、キリスト者には、聖霊によって結果が現れるということが記されています。その当座はわからない。果たして善意からか、妬みや悪意からか。しかし、それも後に必ず結果が出てくることを教えています。  6節は、しばしば御言葉を語る説教者と教えられる信徒との関係、特に霊的な糧を提供する側と受ける側とがどう良きものをもって支え合うか、という勧めとして読まれてきました。牧師就職式でなされる教会員の誓約もこの箇所から取り上げられています。

  しかし、ここまで霊に導かれることを勧め、8節では「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」とまで書くパウロですから、ここも霊の原則を述べていると考えて良いでしょう。ガラテヤの教会が直面している問題は、福音をねじ曲げようとする偽教師たちによるものです。彼らは「自分の肉に蒔く者」であり、その教えは「肉の業」へと人を向かわせ、「神の国を受け継ぐこと」をできなくさせます。それを「肉から滅びを刈り取る」と考えるのです。一方、神の霊に導かれて語る者は「霊に蒔く者」であり、その言葉は「霊の実を結ばせ」、それが「良き実」であり、「永遠の命を刈り取る」ことになると教えます。

  こうした比喩で語られるのが「神の国」であり、パウロは「神の畑」(1コリ3:9)に例えました。それは、主イエスが「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)という、主イエスの言葉と霊の関係から成り立ちます。

  主イエスはサマリアの女と話し、彼女はこの方こそメシアであると確信し、自分の村の人々に証をします。人々が大騒ぎしている間に、主は昼の買い物から帰ってきた弟子たちに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(ヨハネ4:32)と言われます。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わした方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われます。そして、「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」(36~37)と言われます。

  私たちの想像を超えた「霊の食べ物」が、イエス・キリストの言葉による収穫であり、その霊による種蒔きが人の心と魂を養い、キリストを証しする力になります。それが神の畑の「刈り入れ」となる。パウロが「霊から永遠の命を刈り取る」と書いた言葉は、主イエスが「永遠の命に至る実を集めている」と言われたことと一致します。

  霊によって語る教師、その結果として、神の畑とも言える教会に霊の実が結ばれていく。それを収穫する。そうした良きものを分かち合う。「神の畑」に起こる命の循環が、交わりを育て、群れを養うことが分かります。律法の行いに走り、裁き合いを引き起こし、交わりを破壊していく先に現れるのは教会の衰退です。しかし、信仰により、聖霊によって始まった神の業を思い起こし、あくまでも霊の働きによって全うしようと考えていくのであれば、結実を期待知ることができるでしょう。そこで、パウロは「飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになる」というのです。

  「信仰によって家族になった人々」(10)とは、そうしたつながりで生まれた人々であり、そこには様々な人が集う神の民が想定されます。パウロはエフェソ書で。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者が一緒に集う群れを「神の家族」(2:19)と呼んでいます。ここは、聖霊に導かれて歩む信仰の交わりを指していると言えます。掟や決まりによって裁き合うような関係ではなく、信仰を一つにする神の家族として、暖かく見守り、支え合う家族を思い描きたいものです。皆、一つの霊によって生まれた神の子たちです。

  霊的に混乱している教会を立て直す努力は、柔和な霊によって導かれ、互いに重荷を負うことによって回復が見込まれるのです。

bottom of page