日本キリスト教会 神戸布引教会
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2023年9月10日 主日説教(要約)
説教:空の鳥を見よ
吉平敏行牧師
聖書:コレヘトへの手紙 5章17~19節
マタイによる福音書 6章5~34節
私たちを信仰に導く聖書の言葉は、すっと心に入ってくるイエス様の言葉によることが多いのです。
キリスト教とは、神の霊に導かれイエス・キリストに出会い、聖霊に導かれて生きる道、と言えるでしょう。主イエスの弟子たちも、最初「この道の者」と呼ばれていました。信仰とは、柔道、茶道、書道のように「道」であり、先達の指導を仰ぎながら、自分をその道にふさわしく整えていく「信の道」と呼んで良いでしょう。
信仰は、自分が正しいと思う道を進むことではありません。聖書の言葉に照らし、神の民として、世の動き、人との出会いや関わり、そうした中で、物事が動いていく仕組みと自分とを照らし合うことも必要です。その中で改めて、神に導かれる、信仰によって判断するという視点が生まれます。信仰があれば、全てがはっきりするというものでもありません。悩みが無くなるわけでもありません。ただ、その年齢、その状況にふさわしく、聖書は知恵を与えてくれます。
ここは「山上の垂訓」で知られるイエス様らしいお言葉の箇所です。集まってきた群衆も、イエス様の言葉を聞いて、生きる糧、希望にしていたでしょう。もちろん、病気を治して欲しい、悪霊を追い出して欲しいという切実な願いもありました。イエス様はそうした群衆を前に、小高い丘に登り、腰を掛け、静かに語られました。
心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(5:3)
私たちはどこかで勘違いをしているのかもしれません。自分は後から生まれてきたのに、初めからいるかのように思っていなかったか。生きているというより、生かされていたのではないか。ある時、自分は生きていると知り、それは、やがて死ぬことになることも分かります。その生かされている間にせねばならないこと、考えねばならないことがたくさんあるのです。そして、まだ知らない膨大な世界があります。
イエス様は、空の鳥や野の草花を使って分かりやすく話されます。空に鳥が飛び、さえずりが聞こえる。周囲の草花、少し遠くに目をやればオリーブやイチジクの木があり、眼下に美しいガリラヤ湖がある。車も飛行機もなく、エアコンも回っていませんから、辺りはシーンとしていたでしょう。人々の視覚も聴覚も、今の私たち以上だったでしょう。 しかしながら、暮らしは、決して楽ではない。日々を生きるのが精一杯。今日のパンはあっても、明日はどうなるか、という日常です。来週?1ヶ月先?とんでも話です。
そういう人々に、イエス様が語られます。「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」。自然観察をせよ言うのではありません。高度な撮影技術によって、私たちはあまりに細やかな自然を「間接的に」見すぎているかもしれません。イエス様は、生きているものの命の根源を考えさせているのです。お腹が空いている人々に、今は、少し目を周りに向けてみなさい。そして、心の目、心の思いを、高いところに向けて御覧なさい、と促されたのです。 あの空を飛ぶ鳥たちが、どうしてああして生きていられるかを考えなさい。 「あなたがたは、そんな鳥たちよりも価値があるものではないか」。この一面の美しい花を、もう一度見回してごらんなさい。神はこれほどに装ってくださる。「まして、あなたがたはなおさらのことではないか」。 大自然の只中での授業です。イエス様の声こそ聞こえませんが、パウロが「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ1:20)と書いているとおりです。
そう考えると、日本語で言われる自然を用いたことわざは、教訓じみているものが多いです。 例えば、「桃栗三年柿八年」、何事も結実までに時間はかかるという忍耐を説きます。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」、謙虚が一番。鳥を見て、「立つ鳥跡を濁さず」、虫を見て「蓼食う虫も好き好き」。自然は、そんな道徳を教えているだけでしょうか。
空を飛ぶ鳥たちだって、遊んでいるわけではないでしょう。空を駆け巡り、餌を探し、運んでは雛に餌を与える。私たちは、気難しい顔をして、パソコンの画面を見ながらタイプしている。朝から晩まで背突かれながら働き、生きるために働いている。「あなたがたは、鳥より価値がある」と言われても、鳥の方がいいじゃないか、と思ってしまう。
イエス様は、神がなんでも面倒を見てくれるから、あなたがたは何もしなくて良い、と教えているのではありません。私たちが、必要以上に「思い悩み」、今を生きる意味を見失い、まだ来てもいない明日や来週のことまで心配して、肝心な今日という日を見失うことがないように、と教えているのです。思い悩み、心を病んで、自分の体や命を損なうことになったら、それこそ本末転倒でしょう、というのです。一体、何を考えて生きているのか?
人間が他の被造物と違うのは、言葉で考え、想像力を働かせることができるということです。その想像力がしばしば暴走する。罪ある人間は、その自然を造られた神を知らず、認めず、自分でことの善し悪しを決める。神などいない、のだから、それでは、誰が考えるのか?やはり自分だろう、と思う。若いうちはまだ体が動くから、なんとかなるかもしれない。しかし、それも年とともに変わってくることでしょう。
貧困の中で、数多くの詩を生み出した石川啄木の詩集「一握の砂」に、こんな詩があります。
草に臥(ね)て おもふことなし
わが額(ぬか)に糞して鳥は空に遊べり
鳥たちは、空を自由に遊んでいるのだなあ、と考える。
路傍(みちばた)に犬長々と欠伸(あくび)しぬ
われも真似しぬ うらやましさに
道端の犬ののんびりとした姿が羨ましくなって、欠伸だけでも真似をしてみる。
そして啄木は、自分の手を見る。
はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢっと手を見る
今なら、「じっとスマホを見る」でしょうか。世間が気になって仕方がない。そして、明日を思い煩う。
人といふ人のこころに 一人ずつ囚人がゐて うめくかなしさ
人間は思い悩むもの、生きること自体が大変であることを思います。
人として生きる場が幸せなら「天の国」と呼んでも良いでしょう。自分の世界に入り込まず、自分の思いで人を支配しようとせず、自分がしてほしいと思うことを人にする。しかも、それが自発的にできる。もし、20~30人で、それができたら、教会はまさに「天の国」となれます。
しかし「天の国」は、心で見るものです。それは、自分の内面、心の持ち方に目を向ける倫理的な世界ではなく、空の上、天と呼ばれる領域に我らの目を開き、それらを司る憐れみ深い父なる神のご支配を見るのです。主イエスは、そこに向かって「心を、高く上げよう」と勧めます。
この時点で、話を聞いている群衆は、目の前のイエスがどういう方かを知りません。しかし、私たちは、この後、イエス様がどのような道を辿られるかを知っています。イエス様は、十字架の死を通して、人の罪の身代わりとなり、その死をもって、天の父なると私たちとを和解させてくださいました。だから、今、私たちに「天の国」がわかるのです。
だから、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と勧めます。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。「これらのもの」とは、私たちが気になる、食べ物、飲むもの、着る物です。しかし、その前に、神を知りなさい、と言われる。
この「義」を英語でライチャスネスrighteousnessと訳し、主に神との関係を示す宗教的な意味で使ってきました。しかし、その「義」はジャステスjustice、つまり正義とか公義とも訳せる言葉です。罪のゆえに、神を知らないまま生きてきた人間は、イエス・キリストに出会うまで、愛しみ深い神であることも知らず、神が判断される善を知りません。
もし、人が天の国を知り、神の真実さを知ったなら、自分も神が養っていてくださることを知るでしょう。そして生きるコツが見えてくる。そうすれば、日々養ってくださる神に感謝できるようになる。そこに神の恵みが現れる生活が始まるのではないか。弱い者を思いやり、助け、支えていく。そして、力をもらって立ち上がった者が、次に、弱い人々を助けていく。その良い循環ができれば、「天の国」は、現実に近づくことでしょう。
自分の内面を覗いても、良いものは出てきません。だから、心を高く上げて、「神の国」に目を向け、神の真実を追い求めます。今日の思い煩いを明日まで持ち越さないことです。