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2023年9月24日 主日説教(要約) 


   説教:狭い門から入れ

               吉平敏行牧師


    聖書:出エジプト記  13章17~22節

       マタイ による福音書 7章13~14節

 「狭い門」というと、高倍率の学校や資格を受験する時によく聞いた言葉です。より難しいところに挑戦する、励ましの言葉としても使われます。それに対し、誰にでも開かれている広い門もあります。原語は異なりますが、「異邦人に信仰の門を開いてくださった」(使徒14・27)とか、パウロも「主は私のために門を開いておられました」(2コリ2:12新改訳)という具合に、新しい宣教地の扉が開かれるような場合に使われます。

  夏目漱石の作品に「門」があります。その門は、お寺の山門を意味します。そこに「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」とあります。その門は信仰の入り口となる門です。

  人は優柔不断と言うかもしれないけれど、そうではない。真剣であるがゆえにためらう。自分の心を覗いて、信じるに足るかどうかを吟味して、やはり自分は信じきれないと、そこを去っていく。

  私のように、それまでキリスト教に触れたことがない者が、信仰告白をして洗礼を受けるかどうかというような段階に入って直面するような課題でもあります。クリスチャンホームに育ったり、キリスト教主義の学校を出た方々ですと、少し悩み方が違うかもしれません。いずれにせよ、真剣に信仰を問う時に、そうした問題に直面します。

  その「門」は、キリスト教の場合イエス・キリストと言えます。主イエスは「わたしは羊の門である」(ヨハネ10・7)と言われました。漠然と神を考えていた者が、はっきりイエス・キリストが真の神であり、真の人であると告白し、洗礼を受けるとなると、やはり立ち止まらざるを得なくなるのです。 そういう場合に、他の人に相談しても答えは得られないでしょう。クリスチャンに尋ねれば信仰告白を勧めるでしょうし、教会を知らない家族や友人に聞いたら、考え直すように言われるかもしれません。自分の目で見、聞いたことを考え、最後は自分で決める、というのが信仰の道です。 それゆえ、信仰の門で問われるのは、「わたし」とその門に立つイエス・キリストとの関係です。その方の死と復活を通して、私たちは救われますし、その方以外に救いはありません。 その手がかりとして聖書があります。「言は神であった」ということ、「言が人となって、わたしたちの間に住まわれた」ということ。神は見えない。しかし、その言である神がイエスとして現れ、救いを完成された。その方が、今、私たちの中に住まわれる。 故北森嘉藏先生は、これを「外」と「内」との接点という形で説明されました。その「外」と「内」との接点がキリストの位置であると言うのです。

 「内は、外から内へと入るためのものである。門柱は、外と内との触れ合うところに立てられている。キリスト教においては、真理として奥座敷にあるべきはずのものが、本来的に外へ向かって身を伸ばそうとして内から出てくる。外に立つ人間は、この内からの声に耳を傾けながら、外から内へと門を入るのである」(「キリスト教入門」p.11)と言うのです。

  自分の頭で考えて、その門を通って中に入ろうとしても入れない。その下に佇むしかない。しかし、聖書が神の言葉であると信じる人は、その言葉に従って門に入ります。門の下に佇む者を門の内へと言葉を持って導き入れるのであります。  主イエスが言われるとおり「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」のです。

   出エジプト記に、私たち人間の心に、近道をしたくなったり、戻りたくなったりする傾向があることを記した記事があります。

  主は、モーセを通して、心頑ななファラオに十の災いを下され、ついにファラオはイスラエルの民を解放します。彼らはラメセスから北東のエタムに向けて、壮年男子だけで60万人、そこに家族や羊・牛などの家畜、そこに他の国の人々も加わっておびただしい群衆となって動き出しました。彼らは、そのまま北上して東に折れれば、「ペリシテ街道」に入り、その先にカナンがありますが、そこで聖書は奇妙なことを記しています。

  13章17節「ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」そこで「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。」(同18)。

  主は、イスラエルの民が街道を進んでいったら、途中のペリシテは戦いを仕掛けてくるであろう。そしたら、民は旅に出たことを後悔して、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と言うのです。

  言ってみれば、「ペリシテ街道」はカナンに向かう最短の道。大きな街道、広い門です。しかし、簡単に出られたと思った分、また簡単に戻ってしまうのです。実は、門の広さ、狭さが、私たちの心にあることを主はご存じでした。

  神様がどうしてこんな厳しい道を通らせるのだろうと思うことがあります。スムーズに進める人がいれば、先に進めない人もいる。

  神様は私たちの弱さを知って、敢えて別の道を通らされることがあります。「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」のです。民は、荒れ野の端のエタムで宿営し、その後、南下します。それは確かに主が導いておられる道でした。昼には、暑さを覆う雲が現れて日陰を作る。夜は、火の柱が現れて、道を照らし、寒さからも守ってくれる。こうして民は、昼も夜も行進していきました。やがて、彼らは葦の海まで行き、エジプト軍に追いつかれて、絶体絶命のところに立たされることにもなります。

  キリスト者の道は、アブラハムに主が語れたように、「わたしの示す地へ行け」との主の言葉から始まります(創世記12・1)。行く先を知らずに門を通って入った私たちの道になります。行きつ、戻りつしながら、時に教会を離れたり、別の教会へ移ったりもしますが、それでも「主が示される地」は、キリスト者にとっては憧れの地でもあります。

  エジプトを出たイスラエルの民にとって、「わたしの示す地」は「乳と蜜の流れる地」でした。私たちイエス・キリストを信じた者たちの地は「自由」と言えるでしょう。パウロは、イエス・キリストは私たちを自由にするために解放してくださった、と書いています。それは私たちにとっては、様々な伝統やしきたりから解放されることであり、人を不従順の霊に抑え込んむ諸霊からの解放です。イスラエルが子羊の血をもってエジプトと分離されたように、私たちはイエス・キリストの血をもって罪との関わりを断ち、世と分離せられ、真の自由に向かって進んで行くのです。

  主は、ご自分の弟子になろうとする人々にこう言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・26~27)イエスを主として生きようとするなら、一切を捨てて従え、と仰るのです。その門で、ある人は佇む、ある人は考えて進み出す。ある人は引き返す。イエス様は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とまで言われました。

  私たちは信仰の歩みの折々で、門であるイエス・キリストを通らねばならない。どんなに頭の中で、救いを考えても想像がつかないでしょう。そんな方法でどうして救われるのか。神が人を救うのであって、数われる私たちが注文をつける立場にありません。必死になって救いを求めるなら、イエス・キリストにすがる以外に道は無いことを知ります。パウロは「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と書くのです、(コリント一1・21)

  私たちは、それぞれがその門の前に立ち、これからくぐろうとしする門は、狭い門なのか、広い門なのか、命に至る門なのか、死に至る門なのか、立ち止まって考えねばなりません。

  申命記の言葉をお読みします。


 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。 (申命記30・19~20)


  私たちは「命を選ぶ者」でありたいと思います。

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