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2023年10月1日 主日説教(要約)


   説 教  良い木が良い実を結ぶ

                    吉平敏行牧師


   聖 書:詩編 1編1〜6節

       マタイによる福音書 7章15~20節

 ようやく秋らしくなり、秋の果物が楽しみですが、聖書にもいくつかの果物が出てきます。エレミヤ書には、一つの籠に、初なりの非常に良いイチジクが入っていて、もう一つの籠には、非常に悪くて食べられないイチジクが入っていたという話が出て参ります。そこには比喩があり、良いイチジクは、バビロンに連れて行かれたユダの民を示していて、主の恵みと繁栄の象徴となっています。しかし、悪いイチジクは、エルサレムにとどまった者、またエジプトに住み着いた者たちを示し、主は、あらゆる国の恐怖と嫌悪の的とする、と言われました。 イザヤ書ではエルサレムがしばしばぶどうで喩えられます。主は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた、と言うのです。そこで、主は、よく畑を耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。収穫を期待し、見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待ったのですが、酸いぶどうができてしまった。これはエルサレムの民への嘆きです。

  こうして聖書で扱う譬えには解釈が必要です。今日の「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」(17~18)という比喩は、極めてわかりやすい話です。

  その前に「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」とあり、ヤコブ書では「いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか(3:12)とも書かれています。それが自然であり、必ずそうなるように神は造られたのです。

  しかし、「良い木」とは何か、「悪い木」何であるのかとなると、ここからは比喩であることが分かります。

  神は、エデンの園でアダムに、園のどの木から取って自由に食べても良いけれども、善悪の知識の木からは取って食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと、言われました。その「善悪」を指す言葉が、イエス様が「良い木」「悪い木」と言われた「良い」と「悪い」に対応しています。その木から採れる実について、蛇は女に「それを食べると、目が開けて、神のように善悪(良い・悪い)を知るものとなる」とそそのかします。そう言われて、女が見ますと「その木はいかにも美味しそうで、目を引きつけ、賢くなるようにそそのかしていた」(創世記3:6)と言うのです。女はその木が「良い」と思い、その木の実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したのです。神の声ではなく、蛇の声、悪魔の声を聞いてしまったことが問題でした。 

 それゆえ、主イエスが言われた「良い木」「悪い木」も注意してかからねばなりません。同じように偽預言者も、上部は羊のなりをしてきますから、優しく、寄り添ってくれる教師のように見えてくるのでしょう。イエス様は、その教師たちが偽物か本物かを見分ける見分け方として、木の外観ではなく、その木が結ぶ実を見るようにと言うのです。

  ヤコブは「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」(3:13)と書きます。その人が「柔和な行いや立派な生き方」を「実」とすることができるようです。パウロは、「霊の結ぶ実」(ガラテヤ5:22~23)として「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書きます。  少し別の角度から考えてみましょう。室町時代の世阿弥が「風姿花伝」という能についての芸術論を記しています。

  「能で花を知ることが、第一であり、肝要である。少々分かりづらい事でもある。それをどう心得たら良いのか」という問いから始まります。「花」とは、芸術的に最も美しい芸を演じることの比喩です。

  その答えとして、能とは、幼い頃からものを真似ることによって、それを形に表現して花を咲かせる芸術であるから、それぞれの年代にふさわしい花の咲かせ方がある、と言います。その年齢の時にしか醸し出せない美しさがあるけれども、その時の業によって出てくるもので、咲く花のようようにやがて散っていく、と考えます。しかし、本当の花と言えるものは、人の心のままの現れとして長く続くことになる。そこで、心の現れとして能を磨けば、末長く続くものとなる、という芸術論になっていきます。

  そこで、特に7歳から稽古を積み、物を真似て、心に照らし合わせながら、力を尽くし、工夫を極めて、この花がなくならないようにするコツを知らねばならない。こうした手順を極めていく心が「花の種」である。そして、こう記すのです。「花を知らんと思はば、まず種を知るべし。花は心、種は業なるべし。」

  私は、初め、業によって花を咲かせるという考え方に反発していました。聖書は、業ではなく、信仰によって花を咲かせ、実を結ばせよ、と教えているからと思ったからです。果たして、そういう聖書の教え方・学び方で、良い実を結ぶ生き方を伝えることができるのか。もっと、目に見える「型」として、小さい時に身につけるよう教えるべきではなかったか。すべてを信仰によって、つまり信仰の概念として教えようとして、美しい業や行いとして教えてこなかったのではないか、と思うのです。

  主イエスによれば、良い実を結ぶために良い木に結ばれていれば、自ずと良い実が結ばれるという単純なことのようです。私たちは、ことの「良し悪し」を自分で考えてしまう危うさがあるので、その「良い木」に結ばれることが必要であることが分かってきます。

  そこで見たいのが、ヨハネ15章の主イエスの言葉です。  主は、ご自分を指して「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。主イエスは「良いぶどうの木」とは仰いません。イエス様ですら、「良い」「悪い」は注意しておられます。「良い方は父なる神だけ」という基準です。イエス様はご自分が「まことのぶどうの木」であるというのです。そこに善とか悪、良いとか悪いの価値は加えられていません。ぶどうの木であれば、必ずぶどうの実を結ぶのです。

  そして4節、


わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。


  イエス様ご自身が、私たちにイエス・キリストご自身に繋がっているようにと教えているのです。そして「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(15・7)と言われます。「つながっている」は「留まる」とか「宿る」という意味です。ですから、「あなたがたがわたしの内にとどまり、わたしがあなたがたの内にとどまっている」なら、どんなことでも願いなさい、と言われるのです。それを可能にするのが聖書の言葉です。

  大切なのは、イエス・キリストご自身との交わりです。聖書の言葉を抜きに、自分の善し悪しで考えて、良い実を結ぶことはありません。イエス・キリストご自身に個人的に結ばれること。イエス様の言葉は霊であり、そのイエス様との神秘的なつながりが私たちを生かします。

  もし、そのイエス・キリストとの個人的で人格的な交わりがなければ「まことの命」は流れてきません。信仰の「型」は守れても、やがて養分が行き渡らなくなり、枯れてしまうでしょう。しかし、イエス・キリストに結ばれ、生きる歓び、主を知る喜び、時に悔い改めに導かれ、また赦される喜びを経験し、復活への希望を新たにする経験が積み重ねられていけば、必ず「良い実」を結ぶことでしょう。そして、それを継続させるのが、基本的な「型」でもあります。信仰には、その両面があるのです。  今日の詩編は何と語っていたでしょう。


 いかに幸いなことか・・・

 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 

その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。

 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

                  詩編1:1~3

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