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2023年10月15日 主日説教(要約)


   説 教  主の名を呼ぶ

                  吉平敏行牧師


   聖 書:ヨエル書 3編1〜5節

       マタイによる福音書 7章21~23節

 聖書には、相反する命題あるいは約束を語っているかのような箇所があります。今日の「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」という御言葉も、ヨエル書では「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(3・5)と書き、パウロは、そのヨエルの預言を根拠に「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ロ-マ10・11)と書いています。

  イエス様は、ご自分に向かって「主よ、主よ」と呼んだからといって、全ての人が救われるわけではない。そう呼ぶことが天の国に入り、救われる条件にはならない、と仰るのです。

  今日の箇所はマタイによる福音書の5章から始まる山上の垂訓の最後に差し掛かる箇所です。それは、イエス様は、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人をいやされたので、大勢の群衆がイエス様のところにやって来ました。そうした群衆をご覧になられて、イエス様がガリラヤ湖畔で話された、その時の話です。その最初が、有名な「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)でした。そういう言葉を聞い人々が、イエス様のところにやって来て、「主よ、主よ」と願うのは当然です。

  ところが、その話の終わりになって、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と、言われたのです。みんな天国に入れるかのように思って聞いていたけれども、どうもそうではないようです。  使徒パウロも、口でイエスは主であると告白して、心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら救われる、と書いていますが、もう一方で「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(1コリ13・2)と書いていますし、ヤコブも「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2・17) と明言しています。 こうした話は、今日、「信仰」と「理性」、あるいは「信仰」と「行い」という風に置き換えることもできるでしょう。「信仰、信仰、と言う者が皆、天の国に入るわけではない」、「理性的、現実的、と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言えば、私たちキリスト者の問題にもなってくるのです。

  しかし、そもそも、目に見えない神が、イエスと言う名で人の世界に来てくださった、という出来事が全く相反しているのです。神が人となられたという、相反する出来事を、どう理解するのか。それを、理性で判断することは不可能です。そして、それを可能にするのが「信じる」ということなのです。  そうした相反する命題が、私たちの日常生活で問われてきます。

  その一つの答えが、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」と言われたイエス様の言葉です。「主よ、主よ」と呼びかける者たちは、その「主」である天の父を知ること。その方の御心を行動に移すこと。それができれば天の国に入れることになります。

  ちょっと話は変わりますが、自分の伴侶を何と呼ぶか、ということを考えてみましょう。互いの間で何と呼ぶかは別として、夫は妻を「私の妻が」と言うのか「家内」と呼ぶのか。一方、ご婦人方が夫を、「夫」または「主人」と呼ぶのが、かつては普通でした。

  私が、ある時、友人の奥様を、その方の名前で呼んだら、「自分を名前で呼んでくれた」とたいそう喜ばれ、こちらの方が驚きました。アメリカでは、早い段階で自分をfirst name で呼んでくれ、と言われました。その方が親しみを感じます。それを日本でやろうとしてもうまくいきません。帰国して開拓伝道を始めたころ、「私を、吉平さん、と呼んでください」と言いましたが、それでは呼ぶ方が困ると言うので、やむを得ず「先生」に戻ってしまいました。  聖書は、その点で、妻が夫を何と呼ぶかについて、「たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました」(1ペトロ3・6)とあります。聖書もそういう使い方をしていると知りました。しかし、それは、夫に従うという実質を持った呼び方であった、ということです。

  そうすると、今日の箇所で、イエス様を「主よ、主よ」と呼ぶだけで、その実質がないと、天の国に入れないと読めてまいります。実質とは、「主」と呼ぶのであれば、お仕えする主、天の父なる方の御心を行わなければ、天の国に入れない、ということです。 「主」(キュリオス)は、ヘブライ語の神の名を示すものですが、主の名をみだりに唱えてはならないとの十戒から、ユダヤ人はその名を口にしなかったので、正確な発音はわかりません。一般的に「神」はエロヒームで、その神の名は発音しないので、「主人」を意味する「アドナイ」を使うようになりました。その「主」はローマ皇帝をも意味します。

  目の前のイエス様に向かって、「主よ、主よ」と呼んでも、神の名を正しく呼ぶことにはならないし、イエス様の父なる神を知っていることにもなりません。

  聖書では、神様が名前を変えるよう、命じる場面があります。アブラムという名を、「アブラハム」と呼ぶようにということにも、全ての国の父となる、という意味が込められていました。ヤコブも、神と人とに勝ったということから「イスラエル」と呼ぶように言われます。「イエス」の名前も、神がヨセフに「自分の民を罪から救う」という意味で神がつけられたものです。

  そうしますと、群衆がイエス様に向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡を行いました」と言った場合の「主」は、預言すること、悪霊を追い出すこと、奇跡を行うことは、いかにも力強い業を行っているように聞こえますが、そういうことは異教の神々に仕える者たちにも起こり得ました。

  そこで、主の祈りを思い起こします。「天にまします、我らの父よ。願わくは御名をあがめさせ給え。御国を来らせ給え。御心の天になる如く、地にもなさせ給え」。その「御名をあがめさせ給え」とは「あなたの名前が、聖なるものとされますように」という意味です。「聖なる」とは、世の人々が使う「神々の名」、異教の神々の名前ではない、特別に扱われるべき神の名前として、大切に扱われるようにということです。つまり、イエス様を「主よ、主よ」と呼ぶのであれば、イエス様の僕としてお仕えすることが求められます。自分がやっていることを誇り、預言をしました、悪霊を追い出しました、奇跡も行いました、と言っても、それは他の神々の名でもできることです。主は、祈りにおいても「彼らの真似をしてはならない」と命じられました。それは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じだ」と、「あなた方の父と他の神々」とは違うと、仰っているのです。

  パウロはこう言います。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 ローマ12・1~2 神のみ心を知るためには、自分自身を変えていただくことです。この「変えていただく」は、蝶が蛹から成虫へと姿を変えていくことを意味する「変態」という言葉です。蝶になると蛹の姿を全く残さない、原型をとどめず完全に新しくされる。それが一つのいのちで起こる。私たちも、イエス・キリストを信じることで、それほど変えていただくことができます。人でありながら「神の子」と呼ばれるようになり、父なる神の御心がわかってきます。古い自分が変えられ、主の御心は何かと問い、その御心を知って生きようとする。その時、パウロの言葉の意味を知ることになります。

  これが、キリスト者の美しいリ・フォーメーションのイメージと言えるでしょう。自分が知る範囲で「主」を考えないこと、勝手な像を創り上げて、「主よ、主よ」と呼んでも、イエス様はこう言われるでしょう。 あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。

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