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2023年10月22日 秋のオープン説教(要約) 


  説 教  人はどこから来て、どこへ行くのか

                   吉平敏行牧師


   聖 書:ヨハネによる福音書 8章12~20節

 新幹線が新大阪駅を出て、徐々に加速して最高速度に達してから間もなくすると、高槻市を通ります。その車窓から、北側の山の斜面にローマ字でSEKISUIと書かれた看板が目に入ってきます。

  私は、40年以上も前、その会社に勤務していたある夜遅く、社員寮の部屋の窓から飛び降り、大声を上げて駆け出しました。大騒ぎになり、守衛さんに捕らえられ、直ちに病院へ連れて行かれました。私は、会社の配慮で東京に異動となり、やがて大学の精神科病棟に入院となります。注射で眠らされる治療が続き、仕事の継続は無理となり、半年以上の入院を経て退職します。毎日のように、病院の屋上の浴室から色のない景色を眺めながら、生きる気力を失い、閉鎖病棟をウロウロ動き回る動物のごとき存在でした。あの時の自分を思い出すと、人が命を持たない状態はあるのだ、と思います。私にとって、高槻のSEKISUIは若き日の挫折の地となりました。

  その後、治療は通院になり、かつて同級生に誘われた教会に行くことになります。そこでの教会員との交わり、礼拝や聖書の学びを通して、少しずつ自分を取り戻し、1981年9月に洗礼を受けます。その後、献身し、牧師となって新幹線に乗る機会が増えましたが、新幹線からそのSEKISUIの文字を見るたびに「私は、今、どうしてこうしているのだろう。私は、なぜ、この新幹線に乗っているのだろう」と考えます。決して答えの出ない大きな問いを抱えながら、今も生きています。

  人生の折々に、自分で道を選んできた結果ですから、その道筋を振り返ることはできますが、なぜ、今、こうなっているのか。なぜ牧師をしていて、これから後、どうなるかについて、全く分かりません。

  イエス様は、「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」(14)と言われました。今、私たちも聖書を読んでいますから、知っています。しかし、この場面の指導者たちは、そのイエス様の言葉を信じることができません。自分の経験によってしか考えられない彼らを、イエス様は「あなたたちは、肉に従って裁く」(15)と言われます。

  イエス様は「わたしは世の光である」(12)と言われます。御自分の言葉ですが、イエス様がそれを語ったとしても、それは、真実である。なぜなら、そう語るのは、イエス様一人ではなく、イエス様をお遣わしになった父がおられて、証ししてくださるからである、と言うのです。それにしても、その方は見えませんから、人々には全く嘘のようにも聞こえます。

  「わたしは世の光である」は比喩ですが、事実でもあります。イエス様の言葉から、私たちが生きている世界が、まことの光を持たない、闇の中を歩んでいるような世界なのだと気付きます。希望が湧いてくる世界を描けない、「希望」という言葉が聞かれない、漠然とした闇が覆っている。これが現実です。

  イザヤはこう語ります。


 太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず 月の輝きがあなたを照らすこともない。 主があなたのとこしえの光となり あなたの神があなたの輝きとなられる。 あなたの太陽は再び沈むことなく あなたの月は欠けることがない。 主があなたの永遠の光となり あなたの嘆きの日々は終わる。

イザヤ60:19~20


  イザヤは、その前に、こうも語っています。


わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ 輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。 盲人のように壁を手探りし 目をもたない人のように手探りする。 真昼にも夕暮れ時のようにつまずき 死人のように暗闇に包まれる。 わたしたちは皆、熊のようにうなり 鳩のような声を立てる。 正義を望んだが、それはなかった。 救いを望んだが、わたしたちを遠く去った。

イザヤ59:9~11


  殺戮が行なわれ、正しい者の訴えが退けられ、悪がはびこる。正義を語る者が口を塞ぎ、社会から正義や公義が消えていく。これが暗闇です。 熊のよう、鳩のように、「ウー、ウー」と呻くしかない。今も、私たちの目に見えないところで苦しみ、嘆く人々。それも現実です。 

 北森嘉藏先生が神学的自叙伝に記されていた出来事です。  先生は、熊本の旧制高等学校を出て東京のルーテル神学専門学校に行こうとされます。熊本駅を出た、その当日、汽車が間もなく、山裾のカーブを曲がったところで、一人の女の子を轢き殺してしまったのです。  母親の後ろから線路を渡ろうとした女の子が、汽車の接近に気付いた母親の声に、線路の反対側にではなく、汽車の進む方向に向かって歩き始めてしまったのです。母親が気付いて引き返した時には、すでに手遅れでした。汽車が、その子を轢いてしまう。母親が、獣が吠えるような声で「オーオー」と泣き叫ぶ声が聞こえてきたとありました。

  その時、北森先生は、この悲劇的な出来事について、はじめは、縁起をかつぐわけではないけれども、出直そうか、と考えます。このまま東京へ出たら、自分のこれからの生涯がこの悲劇の影を終わりまで宿しつづけるような気がする、と言うのです。先生は、「このときの私は、徹底的に常識的な人間であった」、「この常識の極地が、縁起をかつぐということである」と書いておられます。

  そして、次の瞬間、先生の頭はものすごい速度で回転し始めます。 一たい私はなんのために東京へ出て行こうとしているのか。それは福音を学び、福音の伝道者と成るためではないか。・・・いま私の乗っている列車が引き起こした悲劇の只中で「オーオー」と泣き叫んでいる母親こそ、どん底の人間ではないか。このような人間を相手にすることこそ、これからの私の本来の任務ではないか。・・・私は出直す必要はない。否、出直すべきではないのだ。今のままのコースこそ、私に定められたコースなのだ。

  パウロはこう勧めています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:8~11)

  イエス・キリストの言葉を信じて、自分はイエス・キリストを知らなかったこと、確かな希望を持たない暗闇の世界を生きる者であったと知ります。 クリスチャンホームに育った方々は当然としても、全くキリスト教とは関わりのなかった者にも、聖書であれ、キリスト教主義の学校であれ、クリスチャンの友人であれ、あるとき教会に導かれ、イエス・キリストについて聞く機会が与えられています。そうした機会もまた、私たちの声無き叫びに、神が答えてくださったと知るのです。神の側から、私たちを憐れんで近づいてくださったのです。これを恵み、と言います。

  光の中を歩むということは、いつでも明るく、輝く道を生きることを意味しません。何ら問題がないことや、悩みがないというのではありません。

  中学校で学んだチィンダル現象を日常生活で見ることがあります。空気中の粒子のサイズにより、光が分散されて、光の通る道筋が白く見える現象です。朝の光が部屋に差し込んで、それまで見えなかった空気中の埃がくっきり浮かんできて驚くことがあります。目に見えなかった空気中の埃が、光が当たると、白く浮き出て、埃が見えてしまうのです。こんな部屋で呼吸していたのか、と愕然とします。

  「光の中を歩む」とは、明るく輝く世界を生きるというよりも、心にある、浮かんでは消えていく「埃」のような問題に光が当たって、自覚されてくるということです。普通に暮らしているところに、「命の光」が差し込むと、かつての罪や過ちが映し出され、平穏ではいられなくなります。神が造られた心は、そういう仕組みを備えているのです。その時、神に悔い改めることを知っている人は幸いです。私の罪を負って、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって死なれたことを知り、赦しを乞うのです。そして、イエス・キリストの十字架は、そんな罪の数々を赦すことを信じるのです。そうするならば、そのまま闇の中を歩み続けることはありません。

  パウロはエフェソ書の続きで、こう書いています。


 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。 (5:13~14)


  罪を覆い隠すのではなく、光が照らされたということに、神が私たちを顧みてくださった証拠として、感謝し、神の前に悔い改めるのです。


   わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。

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