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2023年10月29日 主日説教(要約)


   説 教  救いの岩

                吉平敏行牧師 


  聖 書:出エジプト記 17章1~7節 

      マタイによる福音書 7章24〜29節

 ここは、山上の垂訓の最後の部分です。イエス様は、その最後に、ご自分に向かって「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが入る、と言われます。そして、その「わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」を、イエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と言い換えています。

  この転換は大きいのです。私たちは、天の父、すなわち神も知らないし、その御声など聞いたこともない。そこで、イエス様は「わたしの言葉を聞いて行う者」と言い換えてくださいました。

  今、私たちには聖書があり、聖書から、説教を通してイエス様の言葉を聞くことができます。今は、聖書の言葉を通して主イエスの言葉を聞くのであります。イエス様の「これらの言葉を聞いて行うものは皆」と言われて、山上の垂訓の言葉を思い起こし、自分はとてもそんな風にはできない、と思ってしまうかもしれませんが、そういうことを言っているのではありません。

  論語に「学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」という一節があります。学んでも自分の心に問うて、よく考えないと、学んだ内容もぼんやりとしていて、本当の意味が理解できない。一方、自分の心で思うだけで、広く他の人の意見に学んだり、古人の教えに学ぶことをしないと、道を誤り、危険この上ないという意味です。 毎週説教を聞いてはいても、自分で考えなければ、ぼんやりとしたままです。また、自分の中で思い巡らしていても、やはり正しく学ばないと、思い込みのキリスト教になってしまいます。聖書を読みながら、訳された言葉の意味を考えながら、正しく聞くということが求められてきます。

  この譬えは、乾燥地帯で見られるワジと呼ばれる、普段は水が流れていない「涸れ川」でのことです。乾季には、土地は乾いていて見た目は普通の土地なのです。ワジの近くには地下水脈があって、オアシスなどもあり、その水を利用して居住地ができたりします。しかし、雨季に入り、大雨が降ると、突然、そのワジに鉄砲水が流れてきたり、さらに風が吹いてきたりしますと、一瞬にして家屋が流されてしまいます。ワジを知っている人は、決してそこに家を建てません。

  もう何年も前に、栃木県を流れる鬼怒川が大氾濫したことがありました。その名のとおり、鬼が怒ったかのように氾濫した時、大部分の家が壊れたり、流されたりして、あたり一面が水面と化したことがありました。ところが、その中で一軒だけ、びくともせず立っている白い家があったのです。ニュースで、その映像を見ましたが、本当に一軒だけ残ったのです。

  その家主は東日本大震災の経験から「地震に強い家に」したいと、鉄筋二階建て、コンクリートの基礎の他に18本の杭を地中に打ち込んだと言います。それなら流されないでしょう。家を建てる時の「賢さ」について考えさせられた事例です。

  イエス様は、山上の垂訓で、何度か「あなたがたも聞いているとおり」という言葉を使っておられます(5:21、27、33、38、43)。あなたがたは聖書から、あるいは人伝えにこう聞いている,しかし,わたしは言っておく,という語り方です。それが28、29節に書かれています。

  「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」イエス様の断定的な言葉の力は、神の御子としての権威にあったのです。

  戦後の急速な発展を遂げて、日本は先進国の仲間入りをしましたが、それも過去の話になり、今は国際的に遅れが目立っています。格差が広がり、人々の生活も荒れて、人権や差別の問題、ハラスメントと呼ばれる隠れたところの暴力、家族の崩壊と、若者に覚醒剤が広がっています。本当にひどい倒れ方が始まっています。何を土台に国を建ててきたのでしょう。今はまだ表に現れていないだけです。しかし、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲った」時、どうするのか。「その倒れ方がひどかった」とならないようにしたいものです。

  パウロはそれを教会に当てて語ります。パウロは、自分を熟練した建築家にたとえ、その「土台」を据えたと言います。その「土台」はイエス・キリストです。ここで言われる「岩」としてのキリストを、教会を建てる時の土台に据えたというのです。しかし、その土台の上にどのような家を建てるかは、人次第なのです。 


この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

コリントの信徒への手紙一3:12~13


 と書いています。

  イエス様が弟子たちに「あなたがたはわたしを何者というのか」と尋ねられた時、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。イエス様は、そのことを教えたのは天の父なる神であると伝え、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。イエス様の「この岩」と言われたことを、プロテスタント教会はイエス・キリストを信じる信仰の告白であると、教えてきました。

  ですから、私たちは、自分の信仰の土台、生きていく時の基盤が、その「岩」であるイエス・キリストの上に建っているかどうかを吟味しなければなりません。皆がそう言っているからとか、キリスト教は伝統のある宗教だから、というような理解では不十分です。主は、私たち一人一人に「あなたはわたしを何者だというのか」と尋ねられるのです。一体、イエス・キリストとは何者か、あなたとイエス・キリストとの関係は何か、と問われるのです。

  パウロが、自分を「熟練した建築家のように土台を据えた」と言いました。それは、信仰の土台として、イエス・キリストをしっかり置いた、ということです。神の子イエス、死者の中から復活した方を、信仰の土台に据えた、そのほかに救いはないのです。それ以降の長い歴史の中で、教会は、様々な試練を通って、それまでの建て方が問われてきたのです。「金、銀、宝石、木、草、わら」のように、一つ一つ建て方を吟味した上で、本当に耐久性のある長持ちする教会(信仰者の群れ)を建てようとしてきたのか。

  イエス様は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は賢い人に似ている、と言われました。逆に、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行なわない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われる。賢さと愚かさの違いは、御言葉を聞いて「行うか」「行わないか」です。

  だれでも、イエス様の言葉どおりに行えば、賢い人のように生きられる。その人の徳とか、性格に関係なく、聖書の言葉のとおりに生きれば、賢い人のようであるというのです。自分の考え、思想、哲学のようなものを土台とはせず、イエス様の仰る言葉に耳を傾け、真剣に取り組む人たちのことです。  試練は突然襲って来ます。その時、イエス・キリストの言葉を聞いてはいても、救いの土台が岩であるイエス・キリストご自身につながっていない時の倒れ方はひどいと言うのです。

  「岩」とは、十字架と復活によって、一切の罪が赦される救いを完成されたイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人たちの群れが、聖霊の宮となり、教会がキリストの足台となったのです。紀元70年にローマ軍によりエルサレムは破壊され、神殿は崩れます。しかし、ユダヤ教の教えは生き延びる。そして、弟子たちに続くキリスト教も生き延びていきました。

  パウロはこう祈ります。


 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように

エフェソの信徒への手紙  3:17

 

神が、霊により、力を持って、あなたがたを「しっかりと立つ者としてくださるように」。「しっかりと立つ」とは「土台とする」という言葉です。ペトロの手紙では「揺らぐことのないように」と訳されています。

  どんな時代に突入し、どんな境遇に置かれようと、決して揺らぐことがない、一貫した姿勢をとることができます。そのために、決して揺らぐことのない岩、イエス・キリストにしっかりと結び合わされることが必要です。 この試みの時代、ますます私たちの信仰の実質が問われてくるのであります。

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