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2023年11月12日(日)礼拝説教(要約)



  説教 神殿の再建

             吉平敏行牧師


  聖書 アモス書 9章11~15節

     使徒言行録 15章6~21節

 このエルサレム会議は、初代教会の福音宣教の大きな転換点になる箇所です。つまり、その後の福音宣教に向けて、特に異邦人の救いについて何を信じれば良いのかがはっきりしたことと、何を目的に宣教をするのかの焦点が定まったということになります。

 パウロは、誰でもイエス・キリストを信じれば救われると説いて来ました。しかし、救いは、本来共同体的なものであり、旧約聖書においてはイスラエルという民、新約においてはイエス・キリストを信じた人々の群れ、つまり教会(エクレシア)となります。そういう観点で使徒言行録を見ますと、イエス・キリストを信じた一人一人の関係から、使徒たちの指導のもとに信者の群れとして歩む教会的な、一致した取り組みへと展開、成長していかねばならないことが分かります。教会は、様々な問題に直面するなかで、その体制を整えてきました。この場面も、その一つの天気となり得ます。

 この会議で取り上げられた問題は、教会に文化的、言語的、生活習慣までも異なる、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の二つの集団に分かれかねない事態に遭遇したことです。

 その問題が表面化したのがシリアのアンティオキアでした。ある時、ユダヤ地方からユダヤ人信者がやってきて「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と告げたのです。それはパウロが伝えていた福音とは異なるものでした。激論となり、アンティオキアの教会は二人と数名の者をエルサレムに派遣して、問題の出処を確かめようとしたのです。実際にエルサレムに着いてみると、確かにファリサイ派から信者になった者たちがいて、彼らが「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と同じことを言っていたのです。

 教会の中心的な指導者が判断を誤れば、異邦人信者にユダヤ人になるべく割礼を施すということになり、異邦人がイエス・キリストを信じる意味がなくなります。イエス・キリスト抜きで割礼を施せば、ユダヤ人になってしまいます。しかし、異邦人信者に割礼を求めなくて良いということになると、イエス・キリストを信じたユダヤ人は、イエス・キリストを信じることで律法を軽んじることになり、彼らは、イエス・キリストを信じなくても良い、という方向に進みかねません。

 律法がもし人間が定めた法であれば、イエス・キリストを信じたということで、無くしても良かったのですが、律法は神がユダヤ人に与えた絶対的な法であっただけに、決して軽んじることのできないものとして扱われねばなりませんでした。

 そう考えますと、この会議は、言わば律法の専門領域に関わることで、今日で言えば神学的な議論の場となる非常に重要なできごとと考えられます。ですから、正論を述べてもらうなら律法を専門とするパウロに説明させるのが一番ですが、パウロは異邦人側に立つ、訴えられている側の当事者です。使徒を代表するペトロも発言しましたが、起こったことの説明と解説と訴えに終わります。最終的には主イエスの弟のヤコブが議長として取りまとめることになります。この方法は、牧会に関する問題に直面したとき、教会がどのように問題を処理するかについて示唆を与えます。

 ペトロは、異邦人のコルネリウスとその周辺の人々に聖霊が下ったという説明とその訴えをしました。次に、バルナバとパウロによる宣教の報告があり、ヤコブが両者をまとめて19節で「わたしはこう判断します」と結論を下します。それは「神に立ち返る異邦人を悩ませてはならない」という、極めてシンプルなものです。20節で若干の注意事項を添えて、これで手紙を書き送ることになりました。こんなにも難しい問題、両者が決裂しそうな問題について、ヤコブが「わたしはこう判断します」で決着が着いたのです。

 その根拠として挙げられたのが、アモス書9章11~12節の預言です(16~18節)。この預言のどこが、割礼推進派のユダヤ人キリスト者を説得することになったのか、ということです。

 ヤコブがペトロとパウロの報告から注目したのは「神が、異邦人の中からご自分の名を信じる民を選び出そうとされた」という点です。救いは全ての異邦人を指しているわけではなく、神の名を呼ぶ選ばれた人々であった、ということです。その言葉が、引用したアモス書の「わたしの名で呼ばれる異邦人が皆」(17~18節)という一節に関係してきます。

 ヤコブが引用したアモスの預言は、ヘブライ語の聖書とも、ギリシア語に訳された七十人訳聖書とも少しずつ言葉を変えて訳しています。

 最初の「その後」は、ヘブル語の聖書では「その日」となっています。預言書の「その日」は、「終わりの日」を指す終末論的な表現です。それは新約的にはイエス・キリストが来られる時を指していると解釈できます。それを、ヘブル語聖書にはない「わたしは戻って来る」という言葉を入れることで示したのです。ヤコブは、神が異邦人を選んで救い出してくださった出来事を、主が来られた印と見ているのです。

 ペトロが証言した聖霊が下った出来事を「主イエスが戻って来られた」約束の成就と見ているのです。では、その聖霊が下ったこと、すなわち主が戻って来られたことが意味するのは何か。それが「倒れてしまったダビデの幕屋を建て直す」ことであり、「その破壊された所を建て直して、元どおりにする」というのです。つまり、神殿の復興ということになります。

 神殿を建てたのはダビデではなく、息子ソロモンですが、ここはあえて神殿ができる前の状態としての「幕屋」を指しています。歴史では、ダビデの後継をめぐる争いとなり、ソロモンが王となり、神殿を建てますが、ダビデの罪、ソロモンの罪により王国は倒れ、南北に分断されます。つまり、理想とされる「ダビデの幕屋」は破壊されてしまったのです。地上のイスラエルは分裂しますが、後のダビデの子イエスによって崩れてしまったイスラエルと神殿は復興されることになります。破壊されてしまった神殿が、ダビデの子イエスによって修復、完成される、という意味になります。

 こうして、主イエスがエルサレムの神殿で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」と言われた言葉の意味を、よりはっきりと知ることができます。私たちはこれまで「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだった」(ヨハネ2:21~22)という言葉に、これはキリストの体、教会のことだと理解してきましたが、主イエスが建て直すと言われた神殿本来の意味は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者からなる「新しい人」の建設であり、目に見えない聖霊の宮を建てることにあったと知るのです。

 ヤコブは主が戻ってこられて、幕屋を建て直すと言われた目的を17~18で記しますが、そこを私訳しますと「残りのものたちとわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を熱心に探し出すようになる」となります。「残りのもの」とは、イスラエルの中でも選ばれた人たちを指す言葉です。それと「わたしの名で呼ばれる異邦人」とが熱心に主を求めるようになる、というのです。

 その結果として、このイスラエルの復興にどうしても神に立ち返る異邦人が必要であること、彼らに割礼を施してユダヤ人にしたら、「わたしの名で呼ばれる異邦人」がいなくなり、預言が成就しないということになってしまいます。それは、ファリサイ派のユダヤ人キリスト者にとっても自分たちの目標と一致するわけで、反対しようがありません。

 この異邦人に割礼を強いようとするユダヤ人信者の発想は、今日私たちキリスト者が求道中の方々に何らかの信仰の形を要求するようなことの中に出ているかもしれません。教会を全く知らない方、まだ求道もしない人が教会に来て、神を求めるとしたら、その方々をどう受け入れるのでしょう。

 アモスの言葉から教えられるのは、主が崩れかけている教会を聖霊によって復興してくださり、聖霊の宮がしっかりと建つならば、そこにクリスチャンホームの子供達であろうと求道者であろうと、主を熱心に呼び求めるような動きが起こる、ということです。つまり、教会が目指すべきところは、主を熱心に求めたくなる信仰共同体を建て上げていくこと、ということになります。

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