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2023年12月3日(日)礼拝説教(要約)


   闇に光あり

                 吉平敏行牧師


   聖書  創世記1:1~5、ヨハネ1:1~5

 私たちは今日のテキストからイエス・キリストがお生まれになる、はるか前のことを考えてみます。

 ヨハネによる福音書冒頭の「ロゴス」は、コイネー・ギリシア語として、当時のヘレニズム世界で使われていました。古代ギリシアの哲学者らが思い描いたイデアという概念もあり、ロゴスもまたそうしたヘレニズム的、さらに言えば異教的に読み解かれてもきました。

 ロゴスは、動詞のレゴー「語る」からきたものであり、語る主体を持つ言葉です。英語ではThe Wordと訳されていますが、新共同訳は、「言」一つで「ことば」とふりがなを付けて訳しています。この振り仮名をつける訳し方は、明治元訳の頃から続いていますが、「言」一文字を「ことば」と読ませるのは、協会訳聖書だけです。

 大きな漢和辞典によると、「言」の形が、「口があり、その口の上に、点と3本の横線があり、その部分をシンと言い「心」(シン)を示す」ことから「口から表現された心のうち側」を指すようです。これはロゴスに近い意味を示すことになります。

 ヘンドリクセンによると「言葉には二つの明確な目的がある。一つは、内部で考える思想、人の魂を表現し、誰であれ、語られたことを聞き、また考えられたことを読む。もう一つは、その思考を人に明らかにする。こうして、キリストが神の言葉であるとは、二つの点を示すことになる。キリストは、神の心を表現し反映させる。また、キリストは神を人に明らかにする」

 著者ヨハネは、手紙の冒頭でこう書いています。


初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について


 そして、


この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。


と続きます。


 命も永遠も見ることができませんし、手で触ることもできません。しかし、その命そのものが現れて、自分たちは見たと証言しているのです。

 わたしたちは、そのロゴス、一文字で「言」と訳された方を、自分のものとして受け取ることができるのです。素直に聞きさえすれば、「言」(ことば)は、人の心にまで入ることができます。

 創世記には「初めに、神は天地を創造された」とあります。天地創造の前に、神はおられて、天と地を造られた、というのです。ヨハネは「初めに言があった」と書きます。つまり、天と地が造られる前に言葉はすでに存在し、そして「言は神であった」と書いています。それが創世記で、言葉によって世界が造られていく様が記されます。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1章3節)とあります。神がおられ、ご自身の口をとおして考えておられることを言い表す。そして「光あれ」と発せられたその時、その言葉どおりに「光があった」。神が口を開いて、その思いを語られた時に光はすでに存在していたのです。そのようにしてできていく世界を、創世記は「初めに、神は天と地を造られた」と記すのです。

 闇があり神の言葉により光ができて、闇と光とが分かれる。そして「光」を昼と呼び、闇は「夜」と呼ばれる。元々あった水の中に「大空あれ」と言われると、水と水とが分かれ、そこにできた大空を、神は「天」とお呼びになる。その天が、天の上の水と天の下の水に別れ、下の水が一つところに集まって、乾いたところが「地」になる。こうして、神が口から言葉を発するたびに、形となって現れて、世界が造られていきました。しかし、こうした形で世界ができていることは、信仰によって初めて理解できるものであり、ヘブライ人への手紙には「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(11:3)と書かれています。

 聖書は、まだ人間が現れてもいない状態にもかかわらず、神と共にいるものが傍にいて、子供が遊んでいるかのように描かれています。そこでは、「わたし」と呼ばれる存在が、何もない時に「生み出されていた」とあります。その時、まだ、大地も、地上の最初の塵もまだありませんでした。その後、こう書かれています。


わたしはそこにいた

主が天をその位置に備え

深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ

深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め

水が岸を越えないようにし

大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり

日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し

主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。

 (箴言8:27~31)


この「わたし」は、箴言では、


わたしは知恵。熟慮と共に住まい

知識と慎重さを備えている

(箴言8:12)


と書かれています。

 ヨハネは、天地創造より先に、ロゴスが神と共におられ、そのロゴスを「神」と呼び、「その方は神であった」と言います。その方に命があり、その命を、神が口を開いて語られる。その命が、言葉として人に聞かれ、人の内に入ることができます。その光である言葉が、人間を照らしているのです。

 5節の「暗闇は光を理解しなかった」と訳されている箇所を新改訳聖書は「闇はこれに打ち勝たなかった」と訳しています。英訳聖書でも「理解する」「打ち勝つ」と訳が分かれています。

 ここの「暗闇」は、抽象的な暗さという概念ではなく、具体的な事柄や意味を示しています。それは、罪と不信仰によって暗くなった堕落した人間でもあります。暗さという概念より、罪ある人間そのものを指すと考えられます。新約聖書には、そうした抽象的な言葉で具体的な事柄を指す用法があります。例えば、ローマ書の「選び」(11:7)という言葉は、「選ばれた一人一人」という具体的な人を指す意味で使われていますし、「割礼」(ローマ3:30)も、「割礼を受けた人」と人間を指して使います。

 そうすると、この「暗闇」は、10節や11節の使い方に照らし合わせて、より具体的に読むことができます。

 10節は「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とあります。その最後の「世」を「暗闇」に代えて「暗闇は言を認めなかった」と読むことができます。 11節も「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」から、「民」を「暗闇」に代えて「暗闇は(言を)受け入れなかった」と読んでも意味は通じます。つまり、暗闇とは「世」であり、「民」という実在する人々を指していると考えて良いことになります。「世」も「民」もキリストを受け入れない「暗闇」なのです。

 ですから、5節は「暗闇は光に打ち勝たなかった」より、「暗闇は光を理解しなかった」と訳した方が、より著者の意図を示していると言えるでしょう。ヘンドリクセンは、ここを「暗闇はこれを自分のものとして受け入れなかった」(私訳)とし、ここははっきりと物を言う言い方を避けた表現であり、ヨハネが意図したのは「闇は光を憎んだ」ということだ、と言います。

 堕落した人間の世は暗闇です。そこに、人間を照らす命の言葉があり、それがやって来て、しかも言葉として、すべての人の心にまで入り、暗闇を照らすのですが、暗闇は、その光である言葉を受け入れず、その光を「嫌った」のです。そう読むとヨハネ3:19~20が理解できます。

 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」

 暗闇は、光を憎んでいるのであり、光に抵抗し、それをはっきりと拒んで、敵対する力としての人間の世界を支配しています。パウロは「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフェソ2:2)と書いています。

 クリスマスは、この命の言葉をいただいて、心にまことの光が差し込んで、御子イエスが世に来てくださったことを噛み締め喜ぶときでもあります。クリスマスこそ、キリスト者が、本当の意味で御子イエス、永遠の命、まことの光が、私たちの心にまで来てくださったことを確かめる季節なのです。

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