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20231210日(日)主日礼拝説教(要約)


  「約束の実現」

              吉平敏行牧師


  聖書  イザヤ書 8章16〜23節

      マタイによる福音書 1章18~25節

 今日の何箇所かに、言葉の言い換え、読み替えが行われています。

 一つは、イエス・キリストの系図の最後16節。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」です。直前まで、父親の名の後に、誰々をもうけた、というパターンで書かれています。それに倣うなら「ヨセフはメシアと呼ばれるイエスをもうけた」で良いはずですが、それは流石に奇妙です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と、当然のことながら「マリア」に切り替わります。周囲は皆、ヤコブの子ヨセフがイエスをもうけたと考えたでしょうけれど、ヨセフの妻となったマリアから生まれたのですから、系図は事実のとおりに書いていることになります。

 18節では「母マリアはヨセフと婚約していた」と、まだヨセフの婚約者でありながら、すでに母マリアと書かれています。この「婚約していた」を、文語訳は「許嫁(いいなずけ)したる」と訳しています。古い言い方で、「嫁」の漢字も好きではありませんが、原文の状況を示している訳です。そして、夢で現れた主の天使が「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とマリアを「妻」と呼んでいます。許嫁のマリアを妻として迎え、正式に結婚せよと命じられたのです。ヨセフとしては急がねばなりません。

 こうして、実在する神の子がいざ人の世に、人の子としてお生まれになると、それまでの人の生業に支障をきたします。当事者は受け入れざるを得ない出来事ですが、当惑するでしょう。

 もう一箇所、明確な読み替え、あるいは解釈が施されているのは、神がつけた「イエス」の名を、著者マタイがイザヤ書を引用し、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と解釈によって呼び方を変えています。イエスの意味は「ご自分の民を罪から救う」ですが、「インマヌエル」をマタイは「神は我々と共におられる」と説明します。イエスは「救い」の意味ですが、ユダヤ人の理解としての神はインマヌエルであると言うのです。わたしたち異邦人も、単に救ってくれる神ではなく、「我らと共におられる神」としてイエスを知らねばならない、ということになります。

 微妙な違いですが、言葉の本質的な理解、言葉が本来持っている意味を取り戻すために、イエス・キリストが来られたとも言えます。神の子が、人間が普通に想像するキラキラと輝き、力を振るうような存在であったら、人は神として受け入れたかもしれません。変貌の山では、その姿を少し見せられましたが。しかし、本当の神はそうではなかったのです。本当の神が、世にこられて、私たちに神理解の転換を求めるのです。

 マリアもヨセフもまだ若く、それぞれに結婚への夢を膨らませ、ちょうど良い時を待っていたでしょう。そこに、突然降って湧いた衝撃的な出来事が起こった。それが、処女マリアが胎に子を宿す出来事でした。

ただマリアは、ルカによれば、事前に天の使いから伝えられていましたから、ここは夫のヨセフの受け入れが大変であったことを伝えます。18節の「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」は、懐妊が明らかになったことを伝えます。ヨセフはマリアを「妻」とするかどうかを決心せねばならなくなったのです。マリアは他の男性とは関係しておらず、ただヨセフに信じてもらうしかありませんでした。

 後に誰もが喜び祝うクリスマスになったのですが、ことはそう簡単ではありませんでした。つまり、当然のことながら、世のクリスマスとイエス・キリストのお生まれとは違う、ということです。

 神の業は、神らしい奇跡を想像させますが、実際に人の間で起こるので、自然に溶け込んでいて人は分からないのです。だから、信じることを通してでしか、神の業を知ることができないようになっているのです。神は初めからおられ、人は後から生まれ、神が造られた世界に生きているのに、その神を信じようとはしないのです。一体、何をもって「神」とするかが問われています。

 マリアの胎内では命が動き始めました。心臓の鼓動が感じられたのです。その事実を「聖霊によって」と、わたしたちは言えるのか、ということです。ヨセフの悩みもそこにあったからです。

 聖書は「彼らが一緒になる前に、胎内で聖霊から子を得たことが明らかになった」と書きます。聖霊が働いて、思いがけない奇跡が起こったというより、マリアの胎内は聖霊から子を得たということです。直接的な言い方をすれば、聖霊から(ek)子を宿したということになります。それはルカの「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)と一致します。

 ヨセフは、許嫁の段階であればまだ離縁も可能と考えたでしょう。しかし、それもマリアが姦淫の罪を犯したという前提で判断となります。マリアが嘘をついているのか。そんなはずはない。しかし、聖霊によって子を宿すなどとは信じ難い。

 このヨセフの悩みに、主の天使が「恐れず妻マリアを迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と伝えたのです。「ヨセフの正しさ」は、律法に基づくもので、彼は律法ゆえに「マリアを生かすことに」苦しみましたが、天使の言葉によって、その法の縄目から解かれることになります。

 マタイは、許嫁マリアの懐妊をイザヤの預言の成就と見ました。23節で、新共同訳は「おとめ」と訳し、新改訳は「処女」と訳しています。英訳はことごとくvirginと訳します。当時のイザヤの背景では結婚前の若い娘を意味する「おとめ」で良いのですが、マタイが記したギリシア語では「処女」であり、マリアの懐妊は、聖霊による懐妊として、預言の成就と見たのです。

 「救い」を意味するイエスの名は、「神は我々と共におられる」を意味するインマヌエルへと理解が広げられます。そこに、誰もが想定する神、特にギリシア人が考える救いをもたらす神ではなく、連綿と続くアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とは、生きている者の神、「我々と共にいる神である」と本来の意味として読替えを示しているのです。異邦人であるわたしたちが「神」と言うとき、インマヌエルの神を思い描けるかどうかが問われます。

 もしヨセフが、自分の正しさに従って、密かにマリアとの縁を切ったとしたらどうなったでしょう。少なくとも、マリアの人生はめちゃくちゃになってしまったでしょう。神のみ業は、たとえ信じ難いことであっても、それを受け入れていった方が事は自然に動いていくということです。

 ヨセフがマリアを妻として迎え、生活を共にしていったら、時がきて男の子が産まれます。周囲は、若い夫婦がごく普通に婚約し、ちょうど良い時に生活を始め、子供が生まれてきたと思うでしょう。

 しかし、そこまでに通ったこの夫婦の葛藤を知る人はいません。こんなにも大きな奇跡、当事者にとっては死ぬほど悩むことが、実に自然に動いていったということが不思議です。神が共におられるから、不思議に守られた。いつでも、どういう状況の中でも、神が共におられるがゆえに、その渦中に陥った人が、どれほど苦しいことであっても、ことが自然に動いていくということを知ります。

 マタイの福音書の終わりが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」 (28:20)となっています。イエス・キリストを受け入れ、信じますと告白する時、わたしたちと主との関わりがはっきりします。わたしたちが思い描く「神」や「救い」は、「神は我らと共におられる」と書き換えられるでしょう。この転換をイエス様がなされたのです。

 驚くべきことは、わたしたちにそれぞれの家系があったとしても、イエス・キリストを信じる時、わたしたちはアブラハムの系図にその名が書き記されるのです。パウロは、イエス・キリストによってアブラハムの子孫であると書いています。そして、人間の子であるわたしたちは、イエス・キリストによって「神の子」と読み替えられるのです。この大きな転換、ただ信じるしかない、この神の約束は、イエス・キリスト、インマヌエルの神を信じることによってのみ、わたしたちに実現するのです。

 ぼんやりとした「神」から、はっきりと神を知る人生へと書き換えられ、わたしは神の子です、との告白を可能にします。やがての日に、その神ご自身をこの目で見るようになるのです。

このクリスマス、インマヌエルの神を、心から讃えましょう。

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