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2024年1月7日礼拝説教(要約)


説教  だれを聖とするのか

                 吉平敏行牧師


聖書  ヨシュア記 5章13〜15節

    ルカによる福音書 5章1〜11節 


 ガリラヤ湖畔に「神の言葉を聞こうとして」集まった群衆は、今、礼拝に集った私たちであります。

 その朝、群衆に話しておられた主イエスは、夜通し働いても一匹も獲れなかった漁師のペトロに声を掛け、少し漕ぎ出してくれないか、と頼まれました。群衆への話が終わると、さらに主イエスはペトロに「沖に漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われます。主は、これはと思う人たちに近づき、声を掛け、招いてくださいます。そこに主のご計画があります。

 人は大抵、自分のことは自分が一番良く知っていると思っています。しかし、時に他の人の方が知っていることが多いのです。そして、私たちを知る主イエスは、私たち自身が気づいていないことを思い起こさせ、新たなる旅へと導かれます。主が「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と掛けられた言葉。もう疲れ切って、力も出ないという、私たちの限界状況において、主イエスの言葉から、思いがけない展開が開かれていくこともあるのです。

 当然、反発も起こります。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。自己主張もする。しかし、先生がそうおっしゃるのだから、やってみましょう、というのがペトロでした。

ペトロと仲間たちは、そのとおりにしました。途中、何を考えて沖へと向かっていたでしょう。ここら辺でいいか。彼らは、いつものとおり、網を投げ入れました。瞬時に、ずしりと重さが感じられたでしょう。自分の方が湖に引っ張り込まれそうです。もう、網を手放すまいと必死です。すると、おびただしい魚が網にかかり、たちまち網が破れそうになったのです。

 ペトロはイエス様の足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白しました。この「罪深い」は、「わたしは穢れた者です」という直感的な反応でしょう。罪そのものよりも、目の前の主イエスという方の前に立ち得ない自分であることがわかったのです。主イエスの前に、ありのままの自分を認めて、悔い改めるのです。それが、シモンの転換点でした。悔い改めのないところに、新しい神の働きは起こりません。

 「しかし、お言葉ですから」が、私たちがこれから新しく生きるキーワードです。魚の大漁ごときで驚いてはいられません。これは、ほんの始まりです。主は「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と約束されました。シモンは、もう魚が獲れるとか獲れないとか、儲かるとか儲からないとかで一喜一憂するような生き方が、ばからしく思えて来たでしょう。

 主キリストは、私たちに語りかけてくださっています。「さあ、沖へ漕ぎ出してみなさい。」「さあ、深みに漕ぎ出してみなさい。」そして「あなたは、わたしに従って来なさい。」

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