日本キリスト教会 神戸布引教会
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2024年1月14日礼拝説教(要約)
説教 主が導かれる道
吉平敏行牧師
聖書 創世記 12章1~9節
使徒言行録 16章6~10節
どうもパウロは自分が進みたい道と神の導き(介入)との間で、進路を決めかねていたようです。パウロは当初、エフェソに行きたかったのです。しかし、それを阻んだのが「聖霊」であり「イエスの霊」でした。エフェソに向かって行こうとすると聖霊が「アジアで御言葉を語ってはならない」と命ずる。そこで彼らはイコニオムを過ぎて、北に曲がります。そして、ミシヤの境まで来た時に、北のビティニア州に行こうとしたけれども、イエスの霊は「そちらにいってはいけない」と言われたのです。
どうしてこういうことが起こったのか分かりません。ただ、自分でこれが神の道である、そこに行きたいと目指す者に、神がその道を阻む形で関わっています。しかし、そこにも神ご自身のご計画があったのです。
港町トロアスに導かれた夜、パウロは幻を見ます。「一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った」(16:9)というのです。マケドニアという地名まで示されました。海を渡ればマケドニア州、その先、南に下ればアテネ、コリントがあり、後にヨーロッパのキリスト教の発祥の地になっていく地域です。エフェソを目指したはずが、導かれたのはトロアスでした。それは、思いがけない展開だったでしょう。同時に、パウロが自分の願いどおりエフェソに直行していたらどうであったか。後に、エフェソがいかに宣教上困難であったか、私たちは知っています。しかし、この時点では、パウロたちには隠されています。確かなことは、主はエフェソに入らない方が良いことをパウロたちに教えておられたということです。
では、「これは、主の導き」と確信させたものは何か。それが幻でした。幻の中に、一人のマケドニア人が立って「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と告げたのです。
この幻について、一つの有力な手がかりは、ここから文章の主語が「わたしたち」にと一人称複数形に替わったことです。ここまでは「彼らは」という3人称複数形でした。そこに、使徒言行録の著者ルカが、ここからパウロたちに合流したことが現れています。パウロが幻を見た後、マケドニアから信者がやってきて、その中にルカがいたのではないかと推測できそうです。パウロたちは、マケドニアが進むべき道であると確信してトロアスから出航しました。
私たちは今、一歩先が見通せない時代に立たされています。その折々の判断の基準にしたいのが聖書の言葉です。自分の主観に頼らず、周囲の状況の変化を、自分の目で確かめねばなりません。
キリスト者の人生は、アブラハムの人生に倣って考えて良いでしょう。主はアブラハムに「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と言われました。しかし、「わたしが示す地」とはどこか。そこで、神は何をお与えになるというのでしょう。聖書は、さらりと「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」と記すのです。
ヘブライ書にこうあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(11:8)。アブラハムは神を信じていたのです。それが彼の一貫した生き方であったと聖書は教えています。
しかし、アブラハムが「ここが主の約束の地である」と確信するまで時間がかかっています。一つ一つの場面で御言葉に導かれ、従っていく中で、結果としてそこに到達したというべきでしょう。
課題は、それを今日にどう当てはめていくかです。
パウロはガラテヤ書で、「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と勧めます。私たちはイエス・キリストを信じて自由にされたことを喜びますが、その自由を、自分の願望達成のために使わないことです。パウロは「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と警告します。神の導きか、自分の欲や願望か。それを吟味するところに信仰の訓練があります。パウロは「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(ガラテヤ5:17)と書いています。もし私たちが、神の霊に従うという訓練を自らに課し、失敗や成功の経験をとおして吟味し、霊に導かれる生き方を学んでいくとすれば、もっと的確な選択をすることができ、さらに自由に生きることができるでしょう。
主の日ごとに礼拝に集い、御言葉の内に語っておられる聖霊の御声に耳を傾け、進むべき道を選び、その状況に応じて、これが主の導きであると確信して進み出したいと思います。