top of page

2024年1月21日主日礼拝説教


説教  神を讃えるために

                 吉平敏行牧師


聖書  創世記 2章4~9節

    エフェソの信徒への手紙 1章3~14節

 エフェソの信徒への手紙は、3節の「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」と大きく括られた一文でできています。また、「たたえられる」が繰り返されます。6節では「神の恵みの素晴らしさがたたえられるため」、12節で「キリストの栄光をたたえるようになるため」、最後の14節で「神の栄光がたたえられる」となっています。

 3節の「ほめたたえられますように」と6、12、14節の「たたえるように」の原語は異なり、3節は「喜びの言葉を捧げる」というような意味です。日本語で「寿ぐ」と言うように、神に喜びの言葉を捧げると言ってよいでしょう。6、12、14節の「たたえる」は讃美することです。

 私たちは、ここに記されるほどの思いで神を讃えているのかどうかが問われます。パウロは手紙の冒頭、神を讃える理由、あるいは讃えられてしかるべきことがらを述べています。

 一つは、「ご自分の愛する御子によって、わたしたちに実現した神の恵みの素晴らしさ」(6節)です。二つ目は、「キリストの栄光」(12節)です。新共同訳は「神の栄光」と訳していますが、ここは文脈から代名詞を「キリスト」とするのが良いでしょう。そして、「神の栄光をたたえる」(14節)、特に聖霊の働きを讃えています。

 神がなされた素晴らしい御業、キリストの栄光、それらをわたしたちに確信させる聖霊の証印、それらすべてによって「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」を讃えるのです。

 そのような関係が分かれば、どれほど実際的に、私たちを救おうとされたのかが分かってきます。そういう救いが描けませんと、漠然とした救いの理解になります。そして、礼拝がなんらかの幸せを願う場になってしまいます。神を讃える力が弱いとすれば、私たちの救いの理解が定まっていないからでしょう。

 一節冒頭の「神の御心」は「神のご意志」と訳せます。ここにはその「神のご意志」が何度か出てきます。

 良く使われる「御心」ですが、原意は「神の意志」です。もう一つは、かつては「御旨」と訳されていた、「ご厚意」とも言える神の思いを示す言葉です。5節はこの二つの言葉が続いていますので、わたしは「神の愛しみよるご意志」しました。漠然と神の御心とか、神の御旨、などと柔らかな神様のお気持ちと理解していたことが、神の愛しみに基づく、強い意志によってなされたとなると、救いの理解も変わってくるのです。

 神はいかに私たちに良くしようかと、愛によって計画を立て、ご自分の意志によって実現して来られたか、という救済の歴史が見えてくるのであります。それが4節で「神がキリストにおいて世の始まりからわたしたちをお選びになったのは、わたしたちが神のみ前に、愛に関する限り、聖く傷のない者となるためでした」という御目的となります。

 天地創造の神が、キリストによって、私たちを聖く、傷のない者にしようとされた。言い換えるなら、キリストによって選ばれたのは、神のみ前に、聖なる者にされるためであった、ということです。

「天地創造の前」を「世の基の置かれる前から」としましたが、どうしてこんな原初的な始まりから救いが関係してくるのかと疑問も湧いてきます。

 創世記の2章4~7節を見ますと、その始まりがいかに麗しい世界であったかがわかります。そこに、神が人を土(アダマ)から造られ、それで「アダム」と呼ばれるのです。「東の方のエデン」に「自ら形づくった人」を置かれたのです。

 そして、ルカによる福音書3章38節では、系図の書き方からすると、「アダム」は「神の子」と訳すことができ、英訳聖書ではアダムを「the son of God」と訳します。最初の人、アダムは神の子として造られたのです。ところが、人は神の戒めを破り、罪を犯してしまったため、エデンの園を追い出され、神との関係が断たれてしまいました。そこで、5節が生きてまいります。

 「イエス・キリストによってご自分の養子にしようにとあらかじめ定めておられたのです」。神は、イエス・キリストによってわたしたちを神の子にしようとされたのです。その結果、「それはご自分の愛する御子によって、わたしたちに実現した神の恵みの素晴らしさがたたえられるため」(6節)となるのです。

 罪を犯し、神との関わりが絶たれてしまった人間に回復の道が開かれた。その結果、私たちは、当初神がご計画された「神の子」とはなりませんが、キリストに故に養子とされて「神の子」となるのです。主イエスがまことの「神の子」として、人間が神に立ち返ることのできる喜びの知らせ(福音)を伝えるのです。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)から始まります。

 その実現への道が、7節以降です。「この方において、わたしたちは、キリストの血による贖い、すなわち罪過の赦しを得ていますが、これも、神は、あらゆる知恵と理解力でわたしたちに溢れさせた結果であり、それによってわたしたちは神のご意志の奥義を知るにいたったのです。それも、キリストにおいてあらかじめお定めになった神の愛しみによるものです」(私訳)。

 そこに、イエス・キリストによる「血の贖い」つまり「罪の赦し」が必要になります。救いとは、神の子イエス・キリストによる十字架の死を通しての罪からの贖いであり、罪人が再び「神の子」とさせていただくことであるという理解になってきます。

 こんな罪に落ちてしまった人間を救うという、壮大なご計画を一体誰が立てるというのでしょう。それを、一体、どう理解すると言うのでしょう。

 パウロは、17節以降でこう祈ります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(18~19)。

この理解が与えられ、神をほめたたえることができますように。

bottom of page