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2024年2月4日説教(要約)


説教  主よ、目を開き給え

                 吉平敏行牧師


聖書   創世記 13章10~18節

     エフェソ信徒への手紙 1章15~23節

 今日の箇所は、1:3~14の中身であり、信徒に理解して欲しい霊的な実体と言えるでしょう。それが17節以降の祈りになっていく理由です。

 祈りは「わたしたちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父」の呼びかけから始まり、「神の全能の力を働かせた」キリストについて述べられます。しかし、聖霊に関する部分(1:13~14)が、教会に置き換えられています。聖霊の働きが教会として説明されています。それが後に述べられる、聖なる神殿、霊の働きによる神の住まい(2:21~22)ということになっていくのでしょう。

 エフェソの人々にとって「神殿」はアルテミス神殿であり、信仰の対象は女神アルテミスでした。しかし、神のご計画による神殿は信者によって霊的に建て上げらる教会ということになります。

 霊的には死んでいて、神がおられることも、どのような方であるかも知らない異邦人が、福音を聞いて、イエス・キリストを信じて救われる。それでも空中の諸霊は働いていて、福音の輝きを見えないようにしてしまっている。パウロの祈りにより、心の曇りが晴れて、やがて神の壮大なご計画が見えてくるのであります。

 三つのことがはっきりしてきます。

 その一つは「希望」です。二つ目は、「聖徒たちに与えられる相続」、三つ目は、「神の全能の力の働き」です。

 本居宣長によれば、日本古来の神は「迦微」(カミ)であり、それは「人も神とされるし、鳥も獣も、草も木も、あるいは山でも海でも、神とされる。すべて尋常でない、すぐれた力を持ち、畏敬、畏怖をもってたいされるようなもの」すべてです(子安信邦「本居宣長」岩波現代文庫p.131)。日本の文化や風習の中に、古風な感覚を呼び起こす霊的なものがあって、それが福音の輝きを歪めているかもしれません。パウロによれば、「神の力」は、「キリストを死者の中からの復活させた」ことに現れています。神は、その復活されたキリストを天に昇らせ、ご自分の右の座に着かせられ、「すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世のみならず、来るべき世においても名付けられる、すべての名の上におかれました」のです。かつて聞いたことのない生成AI、Chat GPTなどという名の上にもキリストはおられます。

 そこでパウロは、この霊の戦いの只中に立つ教会の話へと移っていきます。一切の支配、権威、権力、主権の上に立たれるキリストを、神は教会にお与えになったのです。

 日本キリスト教会が、特に教会を重んじてきたのは、信仰の実態は教会、信仰者の群れにあると考えるからです。共に担う奉仕もありますが、教会員は維持献金という形で、教会の働きを支えています。それが、信仰者の心と体と魂の養いと守りに必要だとする理解に基づきます。今、教会のあり方が問われ、存続すら問われている状況ですが、目に見えないキリストの統治は主の教会を通して行われると信じて、教会は福音を伝えていかねばなりません。

 神が天地創造の前からの計画は、「時が満ちるに及んで」、イエス・キリストの十字架と復活によって実現し、今や聖霊によって教会を通して神の統治が明らかにされています。

 「教会」(1:23)とは、特定の場所を指しているのではありません。原文は「いっさいのことにおけるいっさいを満たす方の充満」とも訳せます。見えざる神の霊的統治を意味しています。

 隅谷三喜男先生が、明治期前半における日本のプロテスタント教会を三つに分類しておられる中の三番目が「教会を社会から必要な限り切り離し、教会の中に閉じこもることによって、信仰の純粋性を教会を中心として保持しようとした人々として、植村正久を中心とする日本基督教会」が挙げられていました。信仰の純粋さを求めるあまり、教会が社会から切り離されてしまったら、福音は伝わっていかないでしょう。

 神の豊かさが、信仰者の群れである教会に満ちていったら、それがキリストを証しする力となり、神を知らない人々であっても、その存在の豊かさのゆえにイエス・キリストの名を崇めることでしょう。時間はかかるかもしれませんが、わたしたちは悔い改めて、それを実現してくださる主にお従いしながら福音を伝えていきたいと思います。

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