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2024年3月3日(日)説教(要約)


  説教  十字架の言葉

               吉平敏行牧師


  聖書  イザヤ書 53章1~5節

      コリントの信徒への手紙一 1章18~25節

 十字架は世にも目につき、語られてもいます。教会堂のみならず、赤十字、配慮を求めるタグ、アクセサリーとしても使われます。一方、「どのような手段によっても消し去ることのできない苦悩・苦難を一生負い続ける」という意味で「十字架を負う」という言い方もなされます。

 私たちは、聖書から「十字架」という言葉がどのように使われているか学びたいと思います。

 一つは、歴史上の出来事、そこで出てくる十字架です。福音書の主イエスの処刑に使われた十字架、ご自身で背負われ、ゴルゴダの丘に行き、釘打たれて立てられた十字架。ペトロは「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」(使徒2:36)という使い方をしています。

 その十字架が人の救いに関わるものとして、主イエスも「自分の十字架を負って」という使い方もしれおられます。パウロの十字架は「キリストの死」を意味する言葉となり、さらに「血」をも意味します。十字架でイエスの血が流されることにより、単に体を持たれたキリストの死にとどまらず、神殿で屠られる生贄の血が流され、人の罪が赦されるという旧約聖書との繋がりで語られます。こうして十字架につけられたキリストは、パウロが「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿」として、救いになくてはならないものとして語られます。

 さらに、パウロは、キリストの十字架は、救済の視点から霊的に解釈されていきます。洗礼によってキリストと一つにされた者は、「キリストと共に葬られ、その死と同じ様になり、キリストと共に復活する」とされます。それは、今日、イエス・キリストを信じているわたしたちにも起こっています。

 キリストの十字架による罪の贖いは、信じる者たちを血で洗い、聖なるものとし、神に受け入れられる者とされます。イエス・キリストの十字架は、ユダヤ人と異邦人とを隔てていた律法の壁を取りのけ、神の民として一つとなって神の前に出るという救いとして描かれます。今や、神の民は聖霊によって神のみ住まいとなり、そこで神を礼拝するのです。

 こうした一切が「十字架の言葉」によって、信じる者たちに実現するとすれば、「十字架の言葉」を信じる者たちにとっては、救いをもたらす神の力と言えるでしょう。

 この「十字架」の受け止め方によって、世は二つに分けられます。ある人々には「愚か」に聞こえます。それが人を救う力になり得るか。そういう具合にしか受け止められない人は、滅びに向っているのだとパウロは言います。一方、「十字架の言葉」に神の知恵が隠されていて、それこそ「神の力」であると感じられるなら、その人は救われる方向に向かっているというのです。

 列車が行き先を切り変える地点となる線路のポイント。その分かれ目はわずかですが、その先へ行くと、大きく異なってきます。わたしたちは、第三者的に、その分かれ目を上からの視点で考えていてはなりません。この「十字架」という言葉を聞いて、自分がどう受け止めるているかで、これから先の方向が違ってくるのだ、とパウロは言うのです。

 そこに、全てを超えて支配される神の救いがあります。神が「世の知恵」を愚かなものにしたのです。知恵のある者はどこにいる、学者はどこにいる、この世の論客はどこにいる。どんなに人間の知恵を積み重ねても、神を知ることはできません。パスカルが記すとおり、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であって、哲学者や賢者の神ではない」のです。それを主は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(ルカ20:38)と言われました。わたしたちは、この神によって生かされているのです。

 神が「神」を知る方法として救いを定められました。つまり「信じるものを救おう」と神がお考えになったのです。人は罪を犯したゆえに神から断たれ、神を知らない状況に置かれています。その結果、人は自分勝手な「善」を追求するようになり、その善悪を知ることが「目が開け、神のようになる」ことと考えました。これが悪魔の手に陥った人間の姿です。

 アダムは神の約束を破り、罪を犯した後、エデンの園で木の間に隠れていました。アダムはその理由をこう述べます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。すると、神は「お前が裸であることを誰が告げたのか」と尋ねます。アダムは自分が知っていることとして「裸」を理由に挙げたのですが、それが罪の結果であることに気づいていません。自分が知っていることをもって神に訴えたところで、全てを見通されているのです。人間の善悪に基づく判断の怖さがそこにあります。

 わたしたちの神は、「信じる者を救う」とお考えになりました。宣教とは、その神の「愚かさ」に徹して、その「十字架の言葉」の愚かさを通して「信じる者」を救うという神の方法です。

 いかにも科学的で、論理的に数字を挙げて説得しようとする知恵であっても、神の目には世の小賢しさでしかなく、神から断たれて死んでいた者が活かされる方法は、神の息を受けて生かされた者が「信じる」という方法しかないのです。

 ユダヤ人にとっては呪われたしるし。ギリシア人には愚かなことにしか聞こえない「十字架」。パウロがアテネのアレオパゴスで福音を語った中心となる「死者の復活」を人々はあざ笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と去っていきました。自分が死んでいる者であることが分かっていません。

 わたしたちは、一貫してこの十字架を語り伝えます。「召されたものには、救いをもたらす神の力、神の知恵である」ことを知っているからです。

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