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2024年3月10日(日)説教(要約)


 説教  世の知恵を超えて

             吉平敏行牧師


 聖書  イザヤ書 55章8~13節

     コリントの信徒への手紙一 2章6~10節

 人々が讃え、憧れる華やかさは、むなしく散っていきます。ペトロはこう書きました。


  人は皆、草のようで、

  その華やかさはすべて、草の花のようだ。

  草は枯れ、花は散る。

  しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。

ペトロの手紙一 1章24~25節 


ペトロは、永遠に変わらないものが「主の言葉」であると書きます。

またコレヘトの言葉に、


わたしは心にこう言ってみた。『見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった』と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。

コレヘトの言葉 1章16~17節 


これは、イスラエルの賢王ソロモンの言葉です。世にあっては勝ち残るための知恵が必要とされます。その事業に秀でる知恵を駆使しながら勝ち進んでいきます。

 しかし、パウロは知恵を「信仰に成熟した人たちの間で語られる知恵」と考えます。「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でも」ない、そして7節「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」と言います。そして、 この世の支配者たちがこの知恵を理解していなかったために「栄光の主」を十字架につけてしまった、と言います。

 この二つの「栄光」。一つは「神がわたしたちに与える」栄光であり、もう一つは「栄光の主」です。十字架に架かられたイエス・キリストのことです。しかしながら、その「栄光」は、世には隠されているのです。

 教会は、ある意味で弱い者たちの集まりです。しかし、そこにも神の知恵があり、パウロは「だれも神の前で誇ることがないようにするため」(1:29)と書いています。神は、敢えて世にあって弱い者たちを選び出し、キリストを頭に一つの群れを造り、この世の知恵や策略に惑わされないキリストの体を建てようとされたのです。

 そこに、神の霊によってのみ知ることのできる知恵を必要とします。この世の知恵のすべてが悪いと言っているのではありません。ただ、世の知恵は人間を滅びから救う力にはなりません。

 その滅びと救いの分かれにキリストの十字架が立っています。ゴルゴダの丘に立てられた3本の十字架。そこにイエスは犯罪人の一人として架けられていました。誰一人、そのイエスが救い主とは思いません。だから、人々は十字架のイエスに向かって「神の子なら、自分を救ってみろ」と罵りました。両脇の強盗たちまで、同じようにイエスをののしったのです。

 これは、どうしたことでしょう。そこに、世が想像する栄光は、イエスになかった、ということです。まさに、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿も」(イザヤ53:2)なかったのです。

 しかし今、福音を聞いて、イエス・キリストを信じて救われたキリスト者は、十字架に架かられたイエスこそ「栄光の主」であると知っています。それゆえ、献身した者、教師・牧師には、今度は違う角度から非難が向けられます。献身した者は、キリストが仕えたように仕えるべきではないか、という論理です。主イエスの謙りを示すように生きることが、献身者の栄光になると考えます。そこで、献身者に自己犠牲まで強いる考え方も生まれます。そういう生き方を示した過去の教師たちの例を引き、今の教師に犠牲を強いる生き方を案に強いる。それが美談にすらなる。しかし、その背後で、抑圧された生活を強いられている牧師家庭があることを知る信徒は少ないのです。こうした日本の宣教の風土を、Suicide mission(自殺宣教)だとアメリカの牧師から指摘されました。

 こうした捻れはどこからくるのか。それはキリストが十字架と復活を経た後、「栄光」に対する見方が変わり、人がキリストの如く十字架を負い、苦難に耐えることが「栄光」という考え方に切り替わります。

 「栄光」についての正しい理解は、神が送ってくださる聖霊によります。生まれながらの人間、イエス・キリストを信じていない人には理解できないようになっているのです。

 11節には「人の内にある霊」と「神の霊」が出てきます。すべては「霊」によって知ることになります。人知るのは、その人の中の「霊」によります。神を知るには、神の霊による他はありません。

私たちがイエス・キリストを信じることができたのも神の霊によります。神からの霊は、人が努力して得るものではなく、神が憐れみによって与えてくださるものです。「世の霊」と「神からの霊」の識別も、神の霊をいただくことなしにはできません。

 15節に「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」とあります。ここは分かりづらい箇所です。

もし、その人の内に神からの霊があれば、その人は人の霊と神の霊との違いを識別できます。しかし、それは普通の人にはわかりません。同時に、自分は神の霊を受けているから、自分の判断は絶対に間違えないと考えたら、それは人間の霊に対する誤った理解でしょう。神の霊による識別は、温和であり抑制的です。

 ですから、イエス・キリストを信じて、神からの霊を受けた者たちは、聖霊を尊んで自分の判断を吟味する必要があります。自分の判断は、神の霊に属するものか、人の霊に属するものか。私たちは「見えるところで人を裁かず、聞くところによって人を裁かない」ことを基本とすべきでしょう。

 このような知恵の識別は、どう活かされるのでしょう。

 そこに「十字架」の役割があります。もしも、この考えを推し進めたら「栄光の主を十字架に付ける」ような結果にならないか。自分の正義を主張し続けることは、今、ふさわしいことか。努力や忍耐を良しとする考え方も大切ですが、それが、その場における神の知恵なのだろうか。パウロは「すがるな。味わうな。さわるな」というような掟は「人間の戒めと教えによる」ものであり、「人間の好き勝手な礼拝、謙遜、肉体の苦行なども賢いもののように見えるけれども、欲に対しては何のききめもない」と書いています。

 私たちは、絶えずイエス・キリストの十字架の意味を考えて、その場で神の御心を問うことに努めねばなりません。パウロは「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架に付けられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2章2節)と言います。信仰生活は、キリストの十字架の一点に焦点を当てることです。そこから、神の救いの壮大なご計画が、地上を生きる我々に当てはめて読めてくるのです。

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