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2024年3月17日(日)ファミリー礼拝説教(要約)


 説教 信仰は聞くにあり

               吉平敏行牧師


 聖書  創世記 15章1~7節

     ガラテヤの信徒への手紙 3章1~7節

 パウロが、3章冒頭で「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」と嘆いた理由は何でしょう。6章冒頭では、「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」と優しく勧めるパウロが、ここではその「柔和」な心を抑えきれないのです。このパウロの生の声を聞き取りたいのです。

 こうした感情的というか過激な言葉が出てくる背後に、パウロのガラテヤの信徒たちに対する思い入れが現れているのでしょう。パウロは2章でイエス・キリストを信じる信仰による義について、個人的な啓示的理解も含めて述べてきました。3章の始まりは、その「信仰による義」と深く関わってきます。聖書は、旧約・新約一貫してこの「信仰による義」を伝えています。義は、神を(罪、汚れなく)信じる者にしか与えられない。神を素直に信じる者に与えられる賜物です。

 わたしたちは、イエス・キリストを信じたことで、その義にたどり着けたのか。その義をいただいていると言えるのか。わたしたちキリスト者の信仰の根幹を問う箇所とも言えます。

 手紙の宛先の「ガラテヤ」という地名は、パウロが全部で3回の伝道旅行をして、毎回、訪ねた教会群であろうと思います。それは、おそらく第一次伝道旅行で地中海の海岸から山間部に入ったピシディアのアンティオキアから東に位置するイコニオン、さらに東のリストラ、デルベといった町々を指していると思われます。その地域で評判の良かった青年テモテを伝道旅行に連れ出すことができたということは、パウロへの信頼が篤い地域であったと考えることができます。

 つまり、ガラテヤ地方の教会は、パウロと密接な関係にあり、宣教の初期から相当パウロが力を入れていた地域と読むことができるのです。しかし、第一次伝道旅行には「ガラテヤ」の名が出てきません。その名が出てくるのは、第二次伝道旅行で通った「フリギア・ガラテヤ地方」(使徒16:6)です。そこからガラテヤ地方がどこか、という課題が出てきますが、今回は「イコニオン、リストラ、デルベ」あたりとお考えください。それほど親しく関わったガラテヤの群れが壊れ始めている。間違った教えが、群れに入り込んで、素直に育っていた信者が、別の教えへと移り変わってきている。そういう情報が、第三次伝道旅行でエフェソに直行していたパウロに入り、驚き、呆れて、この手紙を書いているのです。

 1節「だれが、あなたがたを惑わしたのか」は、教会に混乱を引き起こした偽教師たちのことです。信徒たちは、その教えに感化され、魔法にかけられたように、人が変わってしまったのです。偽教師たちの教えは「イエス・キリストを信じるだけでは不十分で、律法を守り、割礼を受けなければ救われない」ということでした。

 ガラテヤの信徒たちは、パウロから福音を聴きながら、十字架に架けられたイエス・キリストがはっきりと目の前に描き出され、イエス・キリストを信じたのです。十字架の意味がわかり、救いを喜んだのです。しかし、今、その喜びが失せつつある。教会内に混乱が生じ、何が救いなのか、その意味が分からなくなっている。教会は、かき乱されたかのような状態に陥ったのです。

 パウロは「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(2節)「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」(5)と尋ねます。あなたがたの救いの始まりは、どこだったのですか?「福音を聞いて信じた」ところから始まったのではないか。何か、規則を守ったから、それを実行したからですか?これは、今日のわたしたちへの問いでもあります。

 当時は、イエス・キリストを信じたときに、聖霊による不思議な印が現れたのでしょう。奇跡や異言もあったでしょう。しかし、イエス・キリストが十字架で死なれたのはわたしの罪のためであったと理解できたのは聖霊による啓示です。神は、ご自分を「信じる者を救おうと」(コリント一1:21)されました。ですから、神が遣わされた御子イエスを信じる以外に救われる道はありません。

 パウロは、この後、問題の根幹となる律法と信仰について論じていきます。特に、キリスト者が信仰の模範とするのはアブラハムである、ということを伝えます。アブラハムが神に義とされたのは、「神を信じたからである」という一点です。「神を信じる」、その一点で、神はアブラハムの信じ方で良い、と認めてくださったのです。何という単純さでしょう。

 わたしたちは、信仰というと自分の心の有り様、信じ方を確かめたくなるのですが、主は、ご自身が造られた被造物、より広い、目の前の世界を見るよう勧めます。「天地の造り主、いと高き神」が、「これらは、だれが造ったのかを考えてみよ」と言われます。パウロが「神の永遠の力と神性は被造物に現れている」(ローマ1:20)と書くとおりです。

 主はアブラハムに、あなたの子孫は、あなたが今見ている星の数ほどになると言われる。言われたとおり、アブラハムは神を信じたのです。パウロは、「彼(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(ローマ4:18)と書いています。信仰とは、自分ではもう無理だ、そんなことはありえない、という只中で、「主の言葉」に信頼することです。「アブラムは主を信じた、そして彼は義と認められた」(6)とは、そういうことです。神は、アブラハムに、その信じ方で良いと証印を押された。わたしたちがその単純さに立って、イエス・キリストを信じるとき、神はわたしたちに証印として聖霊をくださいます。自分は神を信じたはずだ、信じたことになっていると言っても、聖霊の証印のないものは無効です。

 わたしたちは、全能の神が、神を教えるために御子イエスを遣わされた。その最大の証が、十字架と復活であると信じたのです。心で信じるだけで義とされる。その信じ方でよしとされて、聖霊が遣われたのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」(コリント一12:3)からです。

 ジョン・ストットは「律法は人間がなすべき行いを要求するが、福音はキリストが成し遂げてくださったことに対する信仰を要求する。律法は要求して、従うことをわれわれに命じるが、福音は約束を与えて、信じることをわれわれに命令する」と書きました。

 様々な葛藤、悩み、そういう悩みもまた信仰のゆえに起こっている。どんな教えが語られようと、十字架に架かられたイエス・キリストだけが、わたしの救い主である。それで十分です。

 自分の体に染み付いた生き方、考え方、納得できなければ進まないというのではなく、聖書の言葉を信じて進むのだと心に決めるのです。聖書が伝える福音を信じて、日々に聖書を読みながら、祈りながら義とされていることの意味を噛み締めていく、そうした素朴ながら堅実な習慣が、わたしたちの道を守ってくれます。

 その時、どこの誰の言葉でもない、はっきりと自分の救いは聖書の御言葉に基づいたものであると確信し、感謝が湧いてくるでありましょう。それもまた聖霊の働きによるものです。

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