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2024年3月24日礼拝説教(要約)


 説教  十字架こそ誇り

              吉平敏行牧師



 聖書  創世記12章1~4節

     ガラテヤの信徒への手紙 6章11~18節


 今日は、聖書では主イエスがエルサレムに入城される日に当たります。群衆が棕櫚の葉を道に敷いて、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と歓声を上げてエルサレムに迎え入れたことから棕櫚の主日と呼ばれます。これから受難週に入ります。

 群衆のメシアへの期待が、一気にしぼんだのがゲッセマネの園で逮捕されてからです。ゲッセマネの園でイエスは捕らえられ、大祭司の庭で裁判を受けられる。群衆は烏合の衆ですから仕方ないにせよ、いつもイエスの傍にいた弟子たち、中でも「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)とまで言ったペトロまでが、その裁判を受ける段になると、イエス様を知らないと3度まで否定したのです。

 人の大きなうねりの中で、だれ一人としてイエスを「神の子、メシア」と受け止めることができなくなっていた。メシアらしい期待があった間は、主を喜び感謝していたのが、そうした霊的な高揚感が一切消えてしまったかのように、世はイエスを十字架にかける道に突き進む。イエスをそこまで追いやっていった根本的な原因はどこにあるのか。その十字架の意味を解き明かしたのがパウロです。

 私たちは信仰に何を期待し、イエス・キリストを信じようと決心したのか。罪のゆえに神から断たれた人間は、自分が善いと思うことを行います。体は動きますから霊的に死んでいるとは知りません。クリスチャン家庭に育ったとしても、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできないのです。

パウロが11節で「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」と、敢えて「大きな字で書いている」ことを記しています。ここからパウロの福音への反対派を厳しく批判します。彼らは異邦人キリスト者も割礼を受けるべきだと主張しています。それに対し、パウロは自分が語ってきた福音だけが人を救うと言うのです。パウロは、ガラテヤの信徒たちに、これは、あの私が無骨な手で書いている手紙だよ、と言いたいのです。

 人の手とは不思議なもので、その人自身を物語ります。その人の年齢、仕事、どれほどその手を酷使してきたかを示します。ガラテヤの信者に律法どおり割礼を強いようとする者たちには、かつて弱った体を駆使して自分たちの町にまで来てくれたパウロの姿は思い浮かびません。掟主義者に有効な対策は、自分が人間であること、弱さを持った、生身の人間であることを示すことです。イデオロギーに駆られた人間には、生身の人間がわからないのです。

 パウロは割礼主義者たちを「肉において人からよく思われたがっている者たち」(12)と言います。異邦人キリスト者であっても割礼を受けなければ救われないと考えていました。割礼を受けてユダヤ人になるかもしれませんが、信仰の完成にはつながらず、キリストの十字架の意味がなくなっていまいます。同時に、パウロは、割礼を強いようとする者たちが、実は律法を守っていないとも書いています。

 パウロにとって、人間が罪から、悪魔の支配から救われるにはイエス・キリストの十字架以外にはありません。十字架は律法の縄目から解放して、本当に自由にする手段です。それゆえパウロは、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と言うのです。

 パウロは、その福音をすべての人に伝えるために、あらゆるユダヤ的な枠組み、しきたりから解かれ、全く別の文化と価値観に生きる異邦人の世界に入っていきました。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」(コリント一9:19~23)とまで言ったのです。

 そこまで自由に考え、自由に振る舞い、しかもなお自制ができるのはどうしてなのでしょう。「イエス・キリストの十字架」が、そうさせるのです。目の前に、自分の罪のために十字架で死なれたイエス・キリストが描き出されてもなお、自分の功績を誇るでしょうか。この方が、私の罪を背負って十字架で死んでくださったゆえに、私の罪は赦された。だから、私が罪から救い出され、生きるために十字架は必要であった、と知るのではないでしょうか。

 イエス・キリストを信じるとは、イエス・キリストの後に従うことであり、十字架のイエス・キリストとも一つになることです。そこで罪人の自分と罪人の一人になったキリストとが一つとなり、十字架で裁かれたのです。キリストと一つに結ばれて、罪の裁きを受けたのであれば、キリストのゆえに、キリストが復活されたように、自分もキリストと共に復活する。それが、後の日の「体の贖い」となり、救いは完成します。

 課題は、地上を生きる間です。イエス・キリストを信じて罪が赦された者には、神は「アッバ、父」と呼ぶ御子の霊を遣わし、私たちの内にイエス・キリストが住んでくださいます。こうして、人がどんなに善行を積んだとしても、罪に死んだ肉の体のままであれば、罪が掟を通して私たちを責め続け、罪責感を抱いたまま生きることになります。救いとは、イエス・キリストを信じて、罪が赦されることなのです。

 どんなに医学や科学が進歩したとしても、死は避けられません。肉体の死は、罪の結果としての神の裁きを示しています。それゆえ、パウロは福音による救いの絶対性を誇るのです。パウロは「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」と書きます。世に十字架は愚かと映るでしょう。しかし、人の罪が赦されるためには十字架以外にありません。処刑道具の十字架が、罪人を救う唯一の道具です。その影と光、悪魔の闇と神の栄光とを併せ持つのが十字架です。だから、十字架を語らずして人の救いはありません。

 今、社会は「分断」され、大きな、戻りようのない「格差」を生んでしまいました。一人一人の中でも思いが分離しています。どこまでが現実でどこからが空想なのかわかりません。それは、精神と肉体とを分けて扱ってきたツケでもあります。今こそ、私たちは人として、心と体と魂とが統合された人間として生きる道を探らねばなりません。あくまでも、人として神の子として生きる自由を身に着けるのです。その基本が、神の民として礼拝を守り続けることです。自分勝手な思想や信条、教理・教義によってではなく、パウロが言う「このような原理に従って生きる人」の群れ、その生ける「神のイスラエル」に留まって生きるのです。

 パウロは生まれて8日目の割礼を受けています。しかし、パウロは自分の体には「イエスの焼き印」が押されていると言います。「焼き印」は、主人が自分の奴隷に、自分の所有であることを示すための消えることのないしるしです。パウロは主イエスからその焼き印を押してもらっていると言うのです。自分の主人はイエスであるとの確証です。パウロは「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(コリント一6:19~20)と書きました。私たちは、肉の体を背負いながら「神の霊によって・・・心の板に書きつけられた」者たちです。だから「自分の生き方をもって、神の栄光を現す」のです。「この原則に従って生きる人々、自由にされた神のイスラエル」こそ、今、目指すべき教会の信仰です。

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